9 / 24

第9話

 夕飯の用意もあらかた終わり、そわそわとテレビの前で正座する葉月に笑みが溢れる。余程楽しみなのだろう。  睦月は部屋から何枚かあるDVDの内一枚を選び、リビングのレコーダーへとセットした。 「どこ? お父さんとお母さん」 「今、出てくるよ」  再生が始まると、暗い部屋が映りガサゴソと物音が聞こえる。ポッと明かりが一つ、二つ灯りハッピーバースデーの歌が始まった。  家族四人で撮ったものは、この一枚しかない。  葉月はテレビの音に合わせて一緒に歌い始める。やがて、フッと蝋燭を消す息遣いが聞こえ、部屋の中が灯りに照らされた。 『お父さん、二十八歳の誕生日おめでとう〜』  母、那月の嬉しそうな表情が懐かしい。一度も葉月に見せたことがなかったのは、なんとなく思春期特有の仏頂面を見られるのが恥ずかしかったからだ。 『ありがとう。お父さんとしては十二歳だな。睦月も来年は中学生だ……その頃にはこの子も産まれてるし』  健吾が那月の大きいお腹を撫でながら、愛おしそうに笑みを浮かべる。 「母さんのお腹にいるのが、葉月だよ」  画面を指差して、わからないかもなと思いながら葉月を見ると、想像以上に真剣な表情で画面を見つめていた。睦月の声も聞こえていないのか、目に焼き付けんとばかりに、瞬きもせずに画面を凝視している。 『もう、名前決まったの? まさか、葉月とか?』  睦月の言葉に、テレビの中の健吾が大仰に驚いた仕草をしながら言った。 『おっ! さすが睦月、よくわかったなぁ』  そりゃあ、普通にわかるだろうと画面の中の父に思わず突っ込んでしまいそうになる。思い出して、クスっと笑いが溢れた。  那月という名前の由来が神無月からだと理由を聞いた健吾が、そりゃいいなと睦月が産まれた時に同じ決め方をしたと聞いた。この時もまさかなと思って聞いた覚えがある。 『葉月だね〜また赤ちゃん育てられるなんて思わなかったなぁ。睦月はもう抱っこさせてくれないしね。ほら、たまにはお母さんのとこおいでよ、ねーねー』 『やだよ……六年生にもなって』  那月の手を振り払い、恥ずかしそうに唇を尖らせる。 (抱っこしてもらえばよかったな……これが最後だったのに)  育てたかったに違いない。自分の手で葉月が大きくなっていくのを見ていたかったに違いない。  睦月の頭の中には、葉月の成長の記録がある。  何十年先になるかはわからないが、いつか、いつか天国で父さんと母さんに会ったら、絶対に見せてあげる。  可愛かったよ、小さくて、何しても可愛いかった。寝返りの頃は、布団の上でコロンコロン転がって、戻れなくなってうつ伏せのまま泣いていたっけ。  昼寝の時間に一緒になって三人で眠ってしまったり、たった五年のことなのに思い出のページはきっと何千枚にも及ぶ。 『この子ったら照れちゃって〜睦月もあっという間に高校生になって、成人して……この家から出ちゃうんだろうなぁ。ねえ健ちゃん……寂しいね』 『それが自立だろ……それに寂しいと思う間も無く、葉月の子育てがあと二十年ぐらいは続くんだぞ〜いっぱい働かないとなぁ』 『あははっ、そうでした! 睦月は優しい子だから、葉月はお兄ちゃん子になりそうだね〜お母さんとお兄ちゃんの取り合いになったりして』 『お兄ちゃんだけじゃなくて、お父さんの取り合いもしてくれよ……』 『あ、拗ねてる!』  当たり前みたいに、この幸せが続くんだと疑いもしなかった。まさか、数ヶ月後に自分たちがこの世にいないなんて、思ってもみなかっただろう。  もっと、優しくしてあげれば良かった。妊娠中の母を労ってあげれば良かった。仕事で忙しい父の代わりに、家のことももっとすれば良かった。出来なかった後悔ばかりが募っていく。 「ねえ、お兄ちゃん……」  黙って画面を見つめ続けていた葉月がポツリと口を開いた。動画に夢中になっていた睦月も、こぼれ落ちそうになる涙をグッと堪えてどうしたと聞いた。 「お母さんとお父さん、僕のこと好きだった?」 「……そりゃ、大事に想ってたよ。産まれたばっかの葉月抱っこして離さなかったし、二人とも」  産まれたばかりの葉月を見に、ウキウキとした様子で病院へと出かける父を思い出す。  突然の事故は、那月が退院する日、病院からの帰り道に起こった。  よくある玉突き事故なのに、たまたま後ろが大型のトラックだった。車四台が絡む事故での死者は、那月と健吾だけだった。  少しだけ早産で産まれた葉月は、順調に体重が増えるまで入院することになっていた。管理が厳しく小学生の子どもは病棟に入れない。だから睦月は学校が終わり、家で二人の帰宅を待っていた。  今思えば、神様に葉月を連れて行かないでくれてありがとうとしか言えない偶然で、もしもあの日葉月の退院も決まっていたら、三人分の葬式をあげなければならなかったはずだ。 「だったら……なんで、死んじゃったのかなぁ……」 「お父さんもお母さんも、死にたくなんてなかったよ……楽しみにしてたんだ。お宮参りとか七五三とかもう一回できるんだねって! 母さんたちは本当は葉月ともっとずっと一緒にいたかったんだよ。でも……仕方ないんだよ……誰も悪くない。事故、なんだから」  ヒクリと喉が鳴る。我慢していたのは睦月も同じだ。だって、寂しくないはずがない。大人になるまで、絶対そばにいてくれると安心しきっていた人たちが、突然いなくなったんだから。  テレビの前で座り込みながら止まらない涙を手で拭っていると、大きな手に包まれた。 「ったく、お前らは揃いも揃って、頑固で融通が利かねえな。まだ子どもだって自覚あんのか? ガキは泣きたい時は泣いて我慢なんかするもんじゃねえんだよ」 「よ……う、さん」 「陽ちゃーん」  通夜の時も葬儀の時も、しっかりと葉月のそばにいてあげないと、自分が葉月の面倒を見ないととそればかり考えていた。葬儀のあの時以来、悲しみに暮れる暇もなかった。  頬を伝う涙が、陽の肩口を濡らしていく。葉月の身体を抱き寄せて、小さな身体で必死に寂しさに耐えていたのかと思えば、もっと早くに気付いてあげられたらと後悔が押し寄せる。  陽の子ども扱いは魔法のようだ。わんわんと高校生にもなって目が真っ赤になる程、葉月と泣いて憑き物が落ちたように楽になった。まだ子どもなんだから、我慢しなくていい、親の愛情に飢えていてもいいんだ。 「俺は、那月と健吾になることは出来ねえけど、あいつらがお前らに与えたかったものを与えることは出来る。だからもっと我儘になれよ」  泣きすぎてピリピリと痛む目元を擦ると、陽の唇がそっと降りてきて目元の雫を舐めた。 「ちょっ……葉月が……」  言いかけて陽の指が口元に当てられる。先程まで鼻をズビズビと鳴らしていた、葉月の声が今は聞こえない。  腕の中にある小さな顔を覗き込めば、頬を涙に濡らしたままスースーと穏やかな寝息を立てて眠っていた。 「我儘……言ってもいい?」 「いいよ……お前の我儘だったら、大抵のことは叶えてやる」  鼻や額にも唇が降りて、チュッと軽い音を立てながら口付けられた。まるで幼い子どもにそうするように。 「俺、赤ちゃんじゃないんですけど……」 「ん? 乳幼児にんなことするわけねえだろ? で、お願いは?」 「ずっとね、家族でいてほしい。大人になって、俺が働き始めても……陽さんが、結婚しても。あ、でもちゃんとそうなったら、出ていくからね! 家族って言うのは、あの気持ちの問題っていうか、いつまでも陽さんに甘えるつもりはないんだけど、心の支えっていうか……」  慌てるあまり、声が大きくなってしまっていたのだろう。葉月が身動ぎ、ビクリと身体を震わせる。そのまま、またふにゃふにゃと眠りにつく葉月に互いに顔を見合わせホッと息をつく。 「ちょっとベッドに寝かせてくる……あのな、いいか、絶対ここにいろ。俺が戻って来るまでだ。わかったな?」  どうしてだか、気が急いたように早口で告げられる。珍しくも狼狽した様子の陽に、目を見張る。 「へっ? あ、はい……」  葉月の身体を易々と持ち上げて、起こさないように寝室へ運ぶ陽の後ろ姿を見送る。ああ言われたものの、穴があったら入りたい気分で、自分の言葉を反芻しながら頭を抱えた。 (どうしよう、言ってしまった。やっぱり迷惑だったよね)  流しっぱなしになっていて、いつの間にか終わっていたDVDをケースにしまい、紅茶でも淹れようと立ち上がる。お湯を沸かして、ティーカップに紅茶を注いだところで陽が戻ってきた。 「陽さん、紅茶でよかったですか?」 「ああ、サンキュー。ブランデーも落としてもらえるか?」 「はい」  酒類が入っている食品庫から飲みかけのブランデーを取り出し、スプーンでほんの少し紅茶に落とす。ふわりと漂う濃厚なぶどうの香りに酔いそうだ。 「で……さっきの続きだけどな。陽さんが結婚しても、って何だよ。つーか、出ていくってお前ずっとそんなつもりでここにいたのか? だから、バイトとか言い出したってことか。前に言ったろ? 俺は家族だと思ってるって、出ていくってなんだよ」  目の前に座った陽の口から深いため息が聞こえる。でも、自分は間違っていないはずだ。今じゃなくとも、いつかは陽だって結婚するだろうし、そうなったら葉月はまだしも睦月はここには居られない。  居ていいと言われたとしても、正直陽と自分以外の誰かの仲睦まじい様子を、平静を保って見ていられるとは思えない。  陽が田ノ上と睦月の知らない話をしているだけで、心穏やかでないのに。 「結婚……しないんですか?」 「しねえよっ」  語気が荒く睦月の言葉に被せるように、陽が言う。どうしてそんなに必死になるの。 「そんなのわからないじゃないですか。今は、恋人とかいなくても、この先出来るかもしれないし……ううん、陽さんに恋人が出来ないはずないです」  一緒に出掛けると、周りの女性たちが色めき立つことに気付かないはずがない。背の高さもあるが、後ろ髪を伸ばして、金色に染められた髪色、整った男らしい顔立ちはとにかく人目を惹く。 「何でだよ」 「だって、かっこいいもん」  言い切る睦月に、陽は一つため息をつく。 「お前にそう言ってもらえるだけで十分だよ。まあ、結論から言うと……俺の恋愛対象は女じゃない。だから結婚云々はあり得ないから、心配すんな」 「え……」 「いつまでだって、この家にいればいいし……俺が出ていけなんて言うことは絶対ない。これでも感謝してんだぜ? 毎日毎日机に向かって小説書いてるつまらない男の家に、ただいまって帰ってくる家族が増えたこと。カップラーメンじゃなくて、あったかい味噌汁が飲めること。何より、部屋の中に音があること。一人の時は実感湧かなかったけど、俺も多分寂しかったんだな」  ため息混じりにポンポンと睦月の頭を撫でながら告げられる。  まさか……男の人が好きだなんて。そんなの。 「引いたか?」  黙ったままの睦月に心配そうな声がかかる。引く、なんてことは絶対ない。あり得ない。睦月はフルフルと首を横に振ると、陽の顔を仰ぎ見た。 「俺も、ご飯作って美味しいって食べてくれる二人がいるから、毎日幸せです。それに……葉月が楽しそうに笑ってるから。俺一人じゃ、あんな風にちゃんと育てられなかった」 「俺たちは偽物の家族かもしれないけど……毎日の積み重ねがいつか本物になるかもしれないだろ? 少なくとも俺はそう思ってる」  止まったはずの涙が、再び頬を伝い流れ落ちる。今日は泣いてばかりだ。 「せっかくの美人が台無しだ……ほら、鼻かめ」  テーブルの上にあるティッシュを鼻に押し当てられて、笑いが溢れる。あの時全部壊れてしまった幸せを、陽がもう一度与えてくれた。  だからこそ、自分の恋心は家族だと言ってくれる陽に、知られるわけにはいかない。

ともだちにシェアしよう!