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第16話

第十章  一週間後。 「おはよ。今日、いつもより疲れてないな」  いつもより数分余裕を持って教室に入ると、隣の席の杉崎に告げられた。 「あ、おはよ。え、いつもそんなに疲れてる? 今日の朝は葉月の送り頼んだからかなぁ」  ここ最近の気疲れからか、今朝は珍しく起きたのが遅かった。目が覚めた時には、陽が洗濯も朝食の用意もしてくれていたのだ。  申し訳なさもあったが、甘えていいんだと言われているような気がして、嬉しくなった。 「そういうんじゃなくて……ああ、陽さんと上手くいってるからか。なんか丸くなったっていうか、幸せオーラが出てる」 「幸せオーラって!」  送れてやってきた荒地がなんの話だと視線で問うてくる。無言でいる睦月に、杉崎が説明した。 「たしかにな。つか、お前もうバイトする必要ないんじゃないか?」  荒地の言葉に、杉崎もそうだなと同意する。 「え?」 「だから、元々は陽さんちを出ることを考えてバイト始めたんじゃないの? だったらもう必要ないだろ? 家のことで忙しいんだしさ」  確かに両想いになった今となっては働く理由もないのかもしれないが、陽が自分のコネクションを使い紹介してくれた職場を、何も完遂せず途中で投げ出すことはできない。 「週に一度だからバイトにそんな時間とられてるわけじゃないからさ。それに、いい経験させてもらってるんだよね。陽さんの仕事のこととか知れるし、色々考えさせられる」  高卒じゃあんな大手の出版社に勤めることは出来ないかもしれないが、何かしらの形で陽を手伝える側に回れたらと思うようになれたのだ。  それに葉月から聞いた話では、睦月がバイトに出ている間、思う存分陽と二人で遊んでいるらしい。普段は睦月と遊ぶのが当たり前であった葉月にとっては、それが嬉しいと言っていた。 「そっか。あ〜そろそろ進路相談とか始まるよなぁ。ウチのガッコだったら、結構レベル高い大学行けるだろ? でもさ、将来何がやりたいかとか、そんなの今決めろっつーの無理じゃないか?」  杉崎がうんざりしたように天を仰ぎながら、あーあと机の下で足を前に投げ出して言った。 「睦月はどうすんだ? やっぱり、卒業したら働くっていうの変わらないのか?」  荒地は前々からバスケの強い大学に行くのだと言っていた。ブレずに強い想いをずっと抱けることが羨ましい。  睦月も高校を卒業したら働くのだという漠然とした将来は見えていても、自分が何をやりたいか何ができるのかを考えたことはなかった。というより、考えても答えが出なかったと言った方が正しい。 「うん……出版社で田ノ上さん……あ、編集さんなんだけどさ。田ノ上さんが働くのとか見てていいなって思った。けど、あんな大きい会社高卒じゃ雇ってはもらえないだろうし」 「いや、睦月の場合はお嫁さんっていう将来もあるぞ?」  いいこと言ったとでも言うように、杉崎がドヤ顔で人差し指を立てる。杉崎の頭を荒地が叩く。 「目標決まってんなら、大学行けばいいじゃねえか」  一応大学も調べてみたことはあった。しかし、入学金に授業料、卒業するまでに何百万という金がかかる。睦月の学力ならば国立に入ることも出来るかもしれないが、落ちた場合浪人は考えられない。  じゃあ働いた場合はどうかと考えても、これから小学校に上がる葉月のことが頭を過る。入学式や参観日、働いて間もない睦月が休みを取れるのだろうかと不安ばかりだった。 「でも、お金のこともあるし……迷惑かけられないよ」 「それお前の悪いところだぞ。迷惑かけられないってさ。出来ない理由を人のせいにするなよ。やってみたら何とかなることだってあるし、出来なかったら陽さんに相談すればいい」 「睦月は悪い方悪い方にばっかり考えるからなぁ。俺らまだ子どもなんだからさ……どうしても出来ないところは大人に助けてもらおうよ。睦月にだってその権利はあるよ?」  二人に諭されて、陽にも同じことを言われたなと思い返す。本当の親子じゃないから、いつかは出て行かなければならないのだと遠慮していたが、本当の家族になろうと言ってくれた陽に素直に甘えてみようか。 「二人ともありがと。陽さんに話してみるよ」  睦月が笑みを返すと、荒地も杉崎も照れたように頬を染める。教師が教室へと入ってきて、朝のホームルームが始まった。  ふと、視線を感じて窓の外を見る。キラッと植え込みの中から何かが光ったような気がしたが、最近やたらと視線に敏感になっているだけか。  制服の一件のようなおかしなことは最近はない。それでも、たまに視線を感じるのは平日学校にいる時だ。視線を感じるなんて殆どの場合は気のせいで、今までの起こった出来事からの恐怖感から来ているのだと思っている。  たまたま窓が反射して光っただけかもしれないし、女子生徒が使っている鏡かもしれない。 「今日も陽さんのお迎え? 気をつけて帰れよ」  帰りの準備を済ませ、教室を出ようとしていると、同じように部活に行こうと大きなスポーツバッグを肩にかけた杉崎から声が掛かる。 「陽さんは今日仕事」  どうしても外せない仕事があるらしく、帰りは荒地か杉崎と帰れと言われたが、一人で帰ろうと思っていた。  部活行ってらっしゃいと告げると、神妙な顔つきで立ち止まり大丈夫かと聞かれる。 「ん、だって帰るだけだし。あれから何もないしさ」 「いやいや、そんな甘く考えちゃダメでしょ。写真ロッカーに貼るぐらいだったらイタズラで済んだかもしれないけど……制服のは、俺でもちょっと怖い」  睦月を怯えさせようとしているわけではないだろうが、杉崎の表情は不安げだ。  恐怖が消えたわけではないが、いつまでも仕事のある陽に頼っているわけにもいかないし、犯人がわかればまだしも、ただのイタズラで終わる可能性だってある。  結局陽に渡した汚れた制服はどうなったのかわからない。おそらく燃えるゴミの日にでも捨ててくれたのだろう。新しいシャツを注文し待っているところだった。 「やっぱり……警察とか、少なくとも先生には言った方がよくないか?」 「そんな大袈裟にしたくないよ。制服だって、ほんとにアレ……かどうか、確認してないし。ほら、糊とか付けただけかもしれない」 「だとしても、悪質だぞ……陽さん迎えに来れないなら、俺が一緒に帰ってやる」  帰る準備万端に鞄を持った荒地が、廊下を出た先で立っていた。会話を聞いていて、部活用のスポーツバッグを置いて来たのだろう。 「いや……だって、三年生引退して新しいチーム作りが大変だって、言ってたじゃない」 「どうせ、部活出たってお前のこと心配で気もそぞろになるだけだ。杉崎、お前まで休むわけにいかないから俺の代わりに出とけよ?」  やっぱり大変なんじゃないかと、口を開こうとすると大きな手がベシッと顔を叩いた。結構痛い。 「ふ……がっ」 「いいから黙って送られとけ、ほら行くぞ」  荒地のこの強引さはどことなく陽を思わせる。嬉しいような申し訳ないような気持ちで礼を言い、駅へと向かった。 「陽さんには、ちゃんと言ったんだよな?」  つり革だと低過ぎるのか、荷物置きに手を置き睦月を守るようにドア側に荒地が立った。 「うん」 「じゃあ、大丈夫か」  カーブを切り電車が傾く、何度乗っても同じタイミングでバランスを崩してしまうのは、体幹が弱いからか。 「あ、ごめ……っ」  座席に背中をつける形でバランスを取っていた睦月は前のめりに倒れ、荒地の学ランへと顔を埋めてしまう。 「浮気者って言われるぞ。ま、いいけど」  荒地の顔が幾分か赤いのは、照れているのか。ぶっきらぼうだが優しい男で、睦月は中学から何度もこの手に助けられている。 「犯人の気持ちも、わからないではないよな……」 「え……?」  犯人がどうたらと言ったか、と先ほどよりも近くなった目の前の学ランから顔を上げて聞き返す。荒地は窓の外を見ながら、何でもないと首を振った。  電車が駅に着き止まる。スッと荒地の学ランが離れていって、降りるぞと低い声が頭上から降ってきた。  何でもない会話をしながら、葉月の保育園に向かった。  前に荒地がマンションに来たのは一年も前だ。さすがに葉月は覚えていないだろうと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。 「アラチだっ!」  教室内から葉月の声が響く。背の高い荒地は見つけやすかったのだろう。睦月に視線を向けるより先に、葉月は荒地を見つけていた。 「よく覚えてんな〜お前」  荒地が葉月を抱き上げると、いつも陽が抱き上げるときと同じ高さになるのか、葉月が目を輝かせる。 「だってアラチ、陽ちゃんに似てるもん」 「背が高いからね」 「そうだけど、違うよ〜なんか一緒なの。兄ちゃん見てるお顔が」 「ふうん?」  話し方が似ているかもしれないなとは思う。さすがに顔は似ていない。  担任に挨拶を済ませると、抱っことせがむ葉月を荒地がずっと抱きかかえて歩くことになってしまった。 「荒地ごめんね?」 「いや、子どもって体温高えからあったかい。ほら、葉月落ちんなよ」  さすが荒地はバスケ部に籍を置いているだけのことはあって、二十キロ近くある葉月を軽々と持ち上げる。睦月もよく抱っことせがまれるが、重くてすぐにギブアップしてしまい、そうすると陽が代わってくれるのだ。

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