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第18話
目を開くと、いつもの天井がそこにあった。
薄暗い室内は、朝か夜の区別がつかない。リビングから何人かの話し声が聞こえる。その中には陽と田ノ上、それに荒地の声も混じっている。
徐々に覚醒し、そういえば男に襲われかけたことを思い出し身を震わせる。あの男はどうなっただろうと、自室から出てリビングのドアを開けた。
「睦月、起きたか。大丈夫か?」
陽が憂わしげな視線で、ソファーから立ち上がった。
「兄ちゃ〜ん」
葉月が目に涙を浮かべて、睦月の足に縋り付く。葉月に何もなくて良かったと、肩から力が抜けた。
「犯人は捕まったよ。落ち着いたら、警察が話聞かせてほしいって言ってた」
田ノ上の言葉にホッとする。顔も名前も知らない男に狙われていたという事実は、睦月を思ったよりも疲弊させていた。
「葉月、一回マンションの中に入って行ったのに。どうして戻って来ちゃったの?」
荒地は多分あの時、マンションに逃げろだとか、管理人を呼んでこいぐらいのことは言ったはずだ。それなのにどうして戻って来たのかと、つい咎めるような言い方になってしまった。
「だって……」
「あ〜葉月は悪くない。俺が言った通りに、マンションの入り口のところから管理人呼んだらしいんだが、相手にされなかったらしい。イタズラだと思ったみたいだ」
オートロックで中には入れずにドアを叩いたらしいが、イタズラをするなと管理人に怒られてしまったようだ。荒地が警察をと叫んだことで、事の重大さにやっと気付いたらしい。ごめんねと謝られたと葉月が言う。
「そうだったんだ……頑張ったね」
「兄ちゃん、大丈夫?」
葉月を抱き上げ頬を寄せる。もしもあの時荒地がいなかったらと考えると恐ろしい。ただのイタズラだろう、きっとすぐ終わるだろうという考えは希望でしかなかった。
「明日、学校で写真部の八田と校長とで話があるみたいだ。あいつ、校内で撮ってた写真、やっぱあの男だけじゃなく色んなところで売りに出してたって」
やはり八田が撮ったものもあったのか。どれだけの人が自分の写真を買ったのかと想像すると悍ましさしかない。
「制服の件も今回の件も、すでに学校には連絡はしてある。学校側としては外部の人間が入り込んだって考えるより、睦月の席や更衣室の場所を知ってるってことで内部犯だと結論付けてたみたいで、校内を巡回する警備の数を増やす程度の対応だったんだ。俺も正直内部犯だと思ってたからな、仕方ないが」
確かに、狙ったように睦月の使う更衣室のロッカーに貼られた写真、睦月の椅子に置かれた制服、どちらも校内を知らなければ難しいだろう。
しかし大事にしたくないからと動かなかった睦月の影で、陽や荒地たちが尽力してくれていたのだと思うと、身の縮む思いだ。
「担任には話したけど、その時はただのイタズラで片付けられちまった。でもその後制服の件があって、陽さんが学校に連絡したことで焦って対応したみてぇ」
「そうなんだ……」
「お前は大丈夫だからとか言って一人で帰ろうとするのはわかってたからな。荒地くんがいてくれて良かったよ」
まさしくその通りで、陽の言葉には弁解のしようがない。もし、陽が早く帰って来てなかったら、もし荒地が一緒にいなかったら、もしも──葉月に何かあったらと考えると、息が詰まるほどの恐怖を感じる。
「ま、取り敢えずお茶でも飲みますか。ほら、睦月くんも座って。荒地くん、結構遅くなったけど平気?」
姿が見えないと思っていた田ノ上は、キッチンで人数分の紅茶を淹れていたようで、トレーに乗せたティーカップとポットをソファーの前のローテーブルへと運びながら荒地に聞いた。
窓の外に目を向ければ、すっかりと夜の帳が下りている。時計を見ればすでに九時を過ぎていた。
睦月は開けっ放しだった遮光カーテンを閉めて、荒地と陽の間に座った。葉月を膝の上に抱っこしながら、キュッと小さな身体を抱きしめる。
「いつも部活でもっと遅いんで……俺は全然」
「荒地、ほんとにありがとう」
下げた頭の上に、ゴツっと荒地の拳が落とされる。ちょっと……結構痛いんですけど。荒地も睦月の無事な姿にやっと安心出来たのか、まったくもうと疲れたように肩を落とした。
「お前は、っんとによ。葉月をマンションの中に連れて行くまで、俺がどんだけ心配したかっ。それで急いで戻って来てみれば、あの男を突き飛ばして陽さんのとこ行くし」
荒地の口調は明らかに拗ねたもので、睦月はもう一度ごめんと告げた。あの時、陽の声と一緒に荒地の声も聞こえたのだ。けれど身体が自然に陽へと向いていた。
「でも結果的に良かったんじゃない? あのヒョロ男を荒地くんと俺で取り押さえて、睦月くんにも葉月くんにも何もなかったんだから。結果オーライ」
睦月が陽の元へ走り、隣にいた田ノ上は男を取り押さえようと荒地の方へと走った。二人掛かりで押さえつけられ、身動きできなくなったところで、管理人やら警察やらが到着したという事の顛末を話して聞かされる。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ。荒地くん、車で送ってくから」
田ノ上が立ち上がってコートを着ながら言った。仕事で深夜になることが多い田ノ上はまだしも、荒地の両親は心配するだろう。
「あの、田ノ上さんも……ありがとうございました。荒地、また明日ね」
「ああ、明日お前も校長に呼ばれるかもしれないから、色々落ち着かないなら俺も付き添うから言えよ? ま、どうせ陽さん来るんだろうけど」
クシャクシャと髪を撫で回される。殴ってごめんななんて、珍しくしおらしげな態度の荒地に、心配ばかりかけてしまったことを申し訳なく思った。
「ほんと、ごめんね」
バイバイと手を振り、二人を玄関まで見送った。
リビングに戻ると、シンと音のない空間が広がる。あれ葉月は、と部屋を見回せば、ソファーの上でスースーと寝息を立てて眠ってしまっていた。いつもならとっくに寝ている時間だ。無理もない。
「葉月も緊張の糸が切れたな。ずっとお前を心配してたから」
そっと葉月を抱き上げて陽が部屋へと運んでくれた。風呂にも入っていないし、今日着ていた服のままであったが仕方がない。
そういえば夕食も食べていないことを思い出した。葉月も食べないまま寝てしまったのだろうか。
「陽さん、ご飯食べました? 俺、なにか用意……」
「いいから、お前は座っておけ。葉月はちゃんと食ってるし、田ノ上に弁当買って来てもらってるから俺がやる」
「あ、いえ……俺はそんなにお腹空いてないんで大丈夫です。陽さん食べててください。ちょっと俺、お風呂入って来ます」
「おい……睦月っ」
返事も聞かずに、洗面所へと入りドアを閉める。
自分の中にあるのは深い後悔の念ばかりだ。
触れられたくなんてなかったのに。
部屋に陽と二人きりになって思い出した。あの男の性器に手を触れたことを。身体に触れられたことを。気持ち悪かった。近付いてくる唇の形さえ、いまだ鮮明に思い出せる。
洗面所のドアに背をつけたまま座り込んだ。
「気持ち悪い……」
忘れようと思っても、忘れられるわけがない。
男の下品な笑い声と濡れた下肢。掴まれた肩に寄せられた唇。饐えた匂いのする男の身体は、陽とは似ても似つかない。
「う……っ、ぇ」
抑えようのない吐き気が込み上げて来て、蛇口を捻り水を出しながら咳込むが、胃の中は空っぽだったのか水しか吐けなかった。
直接蛇口に口を寄せ、口の中を洗う。髪に水がかかり顔が濡れる。水なのか涙なのかもわからないが、水滴は頬を伝いポタポタと床を濡らした。
ハンドソープをつけて、何度も何度も手を洗った。あんな男に触れられただけなのに、どうして汚されてしまったのかのような気分になるのか。
誰か助けて。
「睦月……もういいから」
後ろから手が伸びて、蛇口が閉められる。ギュッと背中に触れる陽の身体は温かかった。ブルブルと寒さで震えながら、温もりを求めて陽の身体に縋り付いた。
「陽さっ……」
「俺が綺麗にしてやる。さっさと入るぞ」
学ランのホックを外される。どうして陽の手はいつもいつも、温かいのだろう。
お湯を湯船に溜めながら、熱めのシャワーが冷えた身体に掛けられる。陽の足の間に座った睦月は、されるがままジッとしていた。
「ちょっと上向け」
陽の身体にもたれ掛かり、顔を上に向ける。シャンプーを手に取った陽が、睦月の髪を泡だてながらマッサージしていく。
「気持ちいいです……」
「たまにはいいな、こういうの」
シャンプーを綺麗に洗い流され、トリートメントまで終えると、ボディソープを手に取った陽に首筋を撫でられた。
「か、身体は自分で洗いますからっ」
「何を今更。この間もっとすごいことしたろ?」
「でも……」
あの男に触れられた部分を陽に洗わせるのは、嫌だった。綺麗になった身体を触ってほしかった。
「お前はどこも汚れてなんかないから。まあ、俺のもんに触ったあいつのことは許せねえけど……ちゃんと、俺が綺麗にしてやるよ」
「陽さん……」
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