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Fly me to the Moon:08:チョコティーニ
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いつもの見慣れたバーのドアを開ける。Satin Dollのマスターは“ピアノの人”は月曜と水曜に来ると言っていたけれど、ドアを開けるとそこにはピアノの音が流れていた。
Fly me to the moon。瀬川が湯島に好きだと言った曲だ。
いつものように、マスターが「いらっしゃいませ」と声を掛けてきた。一瞬どうしようかと逡巡したが、瀬川はいつも通り、カウンター席に座った。
「今日はカップルのお客様には、こちらをプレゼントしております」
1人で入ってきた瀬川にそう言って、マスターはチョコティーニを差し出した。ウォッカにモーツァルトブラックを加えてステアし、レモンピールを振りかける。甘みが少なくアルコール度数が高めのこのカクテルは、バレンタインカクテルの中でも男性に好まれる物だ。
チョコティーニのグラスには、小さなストラップが添えられていた。
茶色のハートの形をしたチョコレートの上に、ホイップクリームとサクランボと巻きチョコ。そしてその上に、真っ赤なパッションソースがかかっている。先程瀬川の目の前で、湯島が作ったストラップだ。
それを見た瞬間、瀬川はあまりの恥ずかしさにいたたまれなくなって、思わず椅子から立ち上がった。
「も……湯島君!!」
店内の常連さん達が、驚いたように瀬川を見つめる。ピアノの音もふつりと止んだ。だが、そんなことは今の瀬川には些細なことだった。
「何だよこれ!なんのつもりだ!?こんな事されたら、俺は恥ずかしくて死ぬぞ!!」
「せ…瀬川さん?」
マスターが慌てて瀬川に声を掛けるが、瀬川は真っ赤な顔をして、“ピアノの人”……湯島を睨みつけた。そうして視線を湯島に貼り付けたまま、“カップルへのプレゼント”であるチョコティーニを、くっと一気に飲み干す。
「ほら!回りくどいことすんな!行くぞ!」
そう叫ぶと、ピアノの前に座った湯島が、声を立てて笑い出した。いつも店の中で喋ったことのない“ピアノの人”の笑い声に、マスターも常連客も、驚いた顔をしている。
「あはははは、あはは、瀬川さん、ほんと男らしいな!あははははは!」
「うるせぇ!行くぞ!」
「うん。ごめん、行こう。マスター、お騒がせしてすいません」
湯島は立ち上がって瀬川の隣まで来ると、瀬川の腰に手を回した。湯島の肩までしかない瀬川の体は、そうされると湯島にすっぽりと包まれるようだった。
「触るな!なんだこの手は!」
「ごめん、だってこうしないと瀬川さん、逃げるでしょう?」
「今更逃げねぇよ!ほら、行くぞ!恥ずかしい!」
「あはははは」
常連達はポカンとして2人が店から出て行くのを見送った。暫くの沈黙。どれだけそうしていたのか。そのうちに、いつも“ピアノの人”にご執心だった女性客がぽつりと呟いた。
「ちょと…。今日チョコ渡そうと思ってたのに、どうしてくれるのよ……」
「まぁまぁ」
マスターが小さく笑って、その女性客にチョコティーニを差し出す。
「それじゃあ早くそのチョコを渡す相手が見つかるように、今日はこちらをプレゼントいたしましょうね」
「もう!1人でこれを飲んでもしょうがないでしょう!?次に来たら、あの2人のことじろじろ見てやるんだから!!」
「まぁでもほら、あの2人の勇気に乾杯って事で」
反対側に座っていた常連客がグラスを掲げると、その女性客もチョコティーニのグラスを目の高さまで持ち上げて、ぐっとグラスに口を付けた。
「うまくいきますようになんて、絶対思ってあげないんだから!」
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