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Fly me to the Moon:09-2:Fly me to the moon
「どうして店の中では、僕に声を掛けてくれなかったんですか?ピアノを弾いてるのが僕だって、気がついていたんでしょう?」
「いや、最初は気づいてなかった。だっていつもと全然違うし。店の中暗くて、ピアノの方に座られちゃうとよく見えないんだよ」
あの店の暗さは湯島だってよく知っているはずだ。それでなくても、いつもとはあんなに雰囲気が違うのだ。気付けという方が無理だろう?
「なんだ……無視されてるにしちゃ変だと思ったんですよ。会社では普通にSatin Dollに行くって言うし。僕のピアノを好きだって言ってくれたのに店では無視されるから、どう解釈したらいいのか困ってたんです」
そんな事を真面目な顔で言われて、瀬川は少しだけ憤慨した。何故自分だけがそんな風に言われなくてはいけないのだ。だって、自分がピアノの人だと言わずにいたのは湯島の方ではないか。
「それ言うなら湯島君だって俺に何も言わなかったんだから、同罪だろ!?」
「いや、僕はどう対応したらいいのか分からなくて困ってただけです」
「困ってたって……」
その言い方に、瀬川の方が困ってしまう。だって、月曜と水曜には、「楽しんでください」って言ってたじゃないか。今にして思えば、「楽しんできてください」ではなく「楽しんでください」だったのだ。あれは、「自分のピアノを楽しんでください」と言っていたのだ。
だが、そんな瀬川の困惑をよそに、湯島は少し身を乗り出して眉根を寄せてくる。そんな顔をされたら、悪いのは自分の方なのではないかと思ってしまうのだから、男前というのはずいぶん得な顔の造りになっているらしい。
「困ってました。毎週毎週僕がピアノを弾く日には嬉しそうに店に来るくせに。僕のピアノをぴったりくるって言ってくれたくせに。でも会社ではスルーされるから、僕自身には興味がないのかと思って。そんなの怖すぎます。僕をどれだけ振り回す気なんだろうって、本気で思ってました」
湯島は咎めるように口元を歪めた。
ちょと待て。なんだその僕をどれだけ振り回すって。振り回していたのは湯島君の方じゃないか。
「いや、でも俺1度訊いたよな?ピアノ弾けるのかって。あれは君じゃないのかって、遠回しに訊いてるって分かってただろう?でも湯島君、あのときなんにも答えなかったじゃないか!」
「もうあの頃は意地です。だって瀬川さんが気づいているのに気づいてないふりするんなら、僕だって気づいてないふりしますよ!もう瀬川さんから君だろうって言われるまでは、絶対自分からは言わないって思ってました」
「何でそこでそういう意地を張るんだよ!」
「好きな人にお預け喰らってるんですよ!?どういう対応が正解なのか分からなくなるのはしょうがないでしょう!?」
その言葉は、稲妻のように瀬川の中に響き渡った。
好きな人!!好きな人って!!
「好きな人ってそれ、俺のことか!?」
「他に誰がいるんですか!僕、割と分かりやすいと思うんですが!」
「分かりづらいよ!全然分かんなかった!あのチョコ食うまで!!」
「鈍すぎですよ!どこまで人を翻弄すれば気が済むんですか!?」
「翻弄!?だ、だってしょうがないだろう!?普通男の同僚に向けられる好意をラブだとは思わないだろう!?大体どうして湯島君は俺を好きになんかなったんだ?そんな要素がどこかにあったか!?」
「ありますよ!最初から僕は、瀬川さんの顔も声もすごく好みだったんです。でも、それより瀬川さんがいつも楽しそうに企画を出してきて、楽しそうに無理難題をふっかけてくるのが、僕は嬉しかったんです。僕が頑張れば頑張った分だけ、瀬川さんは笑顔を返してくれる。あの笑顔が堪らなく好きなんです。開発室で生まれた物は、瀬川さんの情熱で出来ているんです。僕が作ったんじゃなくて、瀬川さんの中から出てきた物を、僕は形にしているだけで……僕は、ずっとそう思っていました。いつからあなたが好きかなんて、僕にももう分からない。でも、僕はずっとそう思っていたんです」
それを聞いた瀬川はなんと言って良いのか分からなくなった。
自分だって、湯島と仕事をするのは楽しくてしょうがない。他の人間とはこうはいかないのだ。自分がどんな無茶を言っても穏やかに耳を傾けてくれる湯島だから。出来上がった製品や、制作過程の試作品を、愛おしそうに扱う湯島だから。だからきっと……。
じわりと、胸が疼く。
『だからきっと』
その先を考えるのは、何だか少し怖い。だって、こんなに胸が熱いのだ。
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