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Ju te Veux:01-1:パスタ屋さん

「電子ピアノを買おうかと思ってるんです」  会社の帰りにチェーンのパスタ屋でチュルチュルとスパゲッティを食べていたときに、湯島は突然そう言った。言われた方の瀬川はぽかんとして、フォークを持つ手を止めてしまった。 「え?」 「瀬川さん、ついてますよ」  湯島が微笑みながら瀬川の頬についたボロネーゼソースを親指で掬い取り、自分の口に運ぶ。湯島がすれば、そんな仕種も上品に見えた。 「あ、ごめん。それより、電子ピアノって?」 「Satin Dollのようなグランドとはいきませんが、まぁ、指ならしの練習にもなりますし、電子ピアノなら夜でも弾けますから、瀬川さんがいらしたときに好きなだけピアノをお聞きいただけますよ?」  偶然入ったバーSatin Dollで、湯島の奏でるピアノに惚れた瀬川は、その奏者が自分と仕事でタッグを組んでいる湯島であると気づいても、お互いに名乗り合うことが出来ないという関係が長いこと続いていた。それが先月のバレンタインに、湯島は瀬川がSatin Dollに来るように仕向け、マスターに頼んで瀬川の酒に、瀬川の目の前で作ったストラップを添えて出させるというキザったらしい身バレをした。なんて恥ずかしい奴と憤った瀬川はその後湯島の部屋に連れて行かれて……そこで自分と付き合って欲しいと告白されたのだ。  男と付き合うということがどうい事か、その時の瀬川にはよく分からなかったが、何となく湯島の傍にいたいと思った。多分……そう、彼のピアノの音に惹かれていたし、彼のまとう雰囲気は、とても居心地が良いからだろう。  初めて湯島のピアノを聞いたとき、その音を瀬川は「ぴったりと来る」と評した。自分の何かに、彼の音はぴったりとはまる。  多分、そういうことなのだ。  彼の存在そのものが、瀬川の何かにぴったりとはまる。  だから、瀬川は湯島との交際をOKした。湯島ほどぴったりと来る人に、今まで出会ったことがない。多分、色々と途惑うこともあるだろうし、難しいことも憤ることもあるだろう。だが、湯島となら何とかなってしまうのではないかと、そう思うほどには、瀬川は湯島を信頼していた。  彼の居心地の良さ。ぴったりとくる何か。根拠のない信頼感。  それらをひっくるめて何か言葉をつけるとしたら、それは「好き」という言葉になるのではないか。  バレンタインの夜に告白されたときには、なんだかその状況がおかしくて笑い出してしまい、最後までは至らなかった。次に彼の部屋に招待されたときには、瀬川はある程度の覚悟は決めていたのだが、そこで2人はモルトウィスキーのグラスを傾けながら、穏やかに話をして、そうして2時間後には瀬川は湯島に送り出されてしまった。情熱的なキスはしたけれど……なんだろう、なんとなく……ハシゴを外されてしまったような、奇妙で、心許ない気持ちを抱えながら、瀬川は自分の部屋に帰っていった。  多分、初めての男との付き合いに途惑っている瀬川を気遣ってくれているのだろう。  いや、それでも瀬川は、何となく、この微妙な時間を、湯島特有の駆け引きではないかと思っている。

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