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Ju te Veux:06-1:Ju te Veux

   ◇◇◇ ◇◇◇  気がついたら、瀬川は1人でベッドに横たわっていた。外が薄明るい。いつの間に眠ってしまったのだろうか。頭がぼうっとして、まだ体が痺れているようだった。  随分良い夢を見ていた気がする。隣りに居るはずの人がいないのに、寂しい気持ちも不安な気持ちもしないのは、低く静かなピアノの音がここまで聞こえてくるからか。 「……湯島君……」  瀬川はペタリとベッドから足を下ろした。カクリと膝が抜けそうになり、昨夜の痴態を思い出す。  あんなに自分の全てを晒け出して、恥ずかしい格好で湯島を受け入れたのだ。今自分の体がこんなになっていても不思議はないだろう。  ……あの後、自分が達ったのだということを教えられても、今まで自分が経験してきた「達く」という現象とはほど遠くて、瀬川は自分の身に何が起きたのか理解できなかった。 「それなら何度でも教えてあげますよ」  湯島はあの美しい顔でそう瀬川の耳元に囁いて、そしてそれを実行した。  いつだって湯島は有言実行なのだ。できないことをできるとは言わない。そういうところに信頼を置いているのだけれども、まさかこんな事まで有言実行しなくても……。 「も…俺、初心者なんだから……」  自分が彼の背中に縋って何を口走り、どんな姿を見せたのか、なまじ覚えているから始末に悪い。まぁ、こんな事で湯島が自分を呆れたりするとは、さすがに思わないけれど……。 「痛ってぇ……。変なとこ痛いな……」  瀬川は何とかベッドから降りると、ベッドの下でクシャクシャに丸められているバスローブを必死の思いで拾い上げた。腰を屈めるという行為が、拷問のように感じられる。見るとバスローブのベルトはバスローブから外れて、独立して落っこちている。それをもう1度拾い上げる気力は、今の瀬川にはない。  瀬川は取り敢えずバスローブに袖だけ通すと、袷を手で押さえただけの姿でピアノの音のするリビングへ移動した。  Ju te Veux。  昨日Satin Dollで聞いた、ジャズアレンジのJu te Veuxなのだが、その音色は驚くほど甘く、こぼれんばかりの愛情がこめられている。  目を閉じて、うっとりと音を紡ぎ出す湯島の幸せそうな顔。  あのピアノは、俺だろうか。  湯島君の中の俺は、あんなに甘い音を奏でているのだろうか。  実際の自分はそこら辺のどこにでもいるアラサー男だが、湯島君の中では、俺はあれほど甘い存在なのだろうか。あんなにまでも情熱的に、求められる存在なのだろうか。  そうだとしたら、自分はきっと、世界で1番幸せな男だろう。  そうであって欲しいと、瀬川は湯島のピアノに耳を傾けながら、うっとりとピアノを弾く湯島の姿を見つめ続けた。  美しいピアノの最後の一音を奏でると、湯島はピアノに指を下ろしたまま、しばらく愛おしむように余韻を味わっていた。それからゆっくりと振り返り、瀬川に蕩けるような笑顔を向ける。 「感情がだだ漏れだよ、湯島君」 「すいません。今は何を弾いても、こんな音にしかなりません」  湯島はそれからいつもより早い歩調で瀬川の元にやって来て、瀬川の腰に手を回した。 「辛くありませんか?」 「……自分の体じゃないみたいだ。なんか、痩せそう」  瀬川が笑って、それでも湯島に体重を預けると、湯島は急にオロオロとし始めた。 「そんなに辛い思いをさせてしまいましたか?」 「そうじゃなくて……腰をこんなに揺することなんてないからさ。ダイエットに良さそうって話」  正直にそう言うと、湯島は安心したのか、声を立てて笑った。 「なるほど、確かにそうかもしれませんね。僕、大分あちこちに揺すってしまいましたから」 「うん。される側は大変なんだなぁって、すごい思った。でもまぁ、男の足腰を持ち上げて揺すり続ける湯島君の体力には驚いたけど」  ケロリとそんな事を言う瀬川に、湯島が苦笑する。ムードとかいう物を自分に期待されても、無い袖は振れないのだから勘弁して欲しい。それでも、湯島は瀬川が昨日までの瀬川のままであることにホッとしたようで、気分を害してはいないようだった。

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