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第4話

-日風水世- 「おねぇさん」  五十音の近くにあるネイバーフッド型の商業施設を抜けた川で制服を掴まれた。襟の上まで閉めたジャージで顎や口元が隠れかなり幼い男児に見えた。 「遊ぼぉ~?」  迷子というには大きい気がした。小学校高学年か、中学生といった外見で背はわたしの首元くらいまでだった。 「家には帰らないのか」  目線を合わせるために屈んだ。男児は女児と見紛うほど愛らしい顔をして大きな瞳をわたしに向ける。琴野葉山兎に雰囲気が少し似ていたが彼よりも幼さや無邪気さがあった。 「うん。おねぇさんと遊びたい」 「家に帰ろう。どこだ?」 「こっちだよぉう」  小さな手を繋いでわたしは男児が導くままに歩いた。堤防を歩いてあまり水かさのない川を眺めた。歩行者は少なく行政の手入れも行き届いていないようで雑草は伸び放題だった。ソックスとスカートの間の肌に草が掠る。ここが家への道ならば雨の日は危ない?だが近くで猫の声が聞こえて足を止めた。激しく泣き喚くような声はただ親猫を求めているだけならばよかったが危機に瀕しているのではないかと思うと放って置けなかった。 「少し待っていて。動かないで。一歩も」  小さな肩に手を置いた。堤防は雑草に覆い尽くされどこから斜面なのかも分からなかった。川側ではなく藪のようになっているほうへわたしは足元を確かめながら降りていった。何度か男児がそこに立っているのか確認しながら一歩一歩確かめる。下に降りると何の木かも分からないそう高くはない小さな果樹園のような木々の枝や葉の天井があった。猫の泣き叫ぶような声は近く背の低いトンネルのような中を行く必要は無いらしかった。背の高い雑草の中に大きな粗大ゴミが捨てられていると思ったらそれは動いた。人だった。 「あ…」  目が合う。校則に引っ掛かりそうな長い前髪の男子は五十音高校の制服を着ていた。肩や胸に掌サイズの子猫が巻耳(オナモミ)のように貼り付いていたを名前は、確か犬上(いぬがみ)末人(すえひと)。1年B組。アイドル同好会に入部届が出ていたはずだ。 「どうした?こんなところで」 「……いや……別に…」  仔猫が悲鳴を上げるように鳴いている。雨風に曝されたような潰れかけのダンボールがすぐ傍に置いてあった。捨て猫らしい。 「そうか。邪魔をした」  仔猫と戯れていただけらしかった。となれば尋常ではないような鳴き声は腹減りか寝グズだろう。少し滑りやすかったが斜面を上がろうと足を掛ける。 「あ、待って……あ、」  犬上はずっと俯いていたが顔を上げた。わたしと目が合うとすぐ顔を背けてしまう。 「いや…何でも……、ない」  長めの黒い前髪が彼が俯くとともにその表情を隠した。人見知りをする内気な性格なのかも知れない。仔猫はわんわん喚いている。 「おねぇさんだいじょぶー?」  上から男児の声が聞こえた。 「大丈夫だ」  わたしも久々に大声を出した。 「そろそろ暗くなる。足場も悪い。お前も早く帰ることだ」 「う……うん」  仔猫は犬上の制服を登っていく。彼は他人と話して緊張しているのか様子が変だった。仔猫も激しく鳴いている。よく見ると制服が汚れている。 「どこか痛いのか」 「……別に」 「腹か?頭?」  犬上は長めの前髪を揺らし続ける。彼から極度の緊張感を覚えたのはわたしの気のせいなのかも知れない。 「足…」  肩まで登ってきた仔猫を撫でながら犬上はぼそりと呟いた。 「転んだのか」 「…やっぱり、…何でもない…」  犬上の傍に寄って背を向け屈む。肩を貸して登るより早い。 「乗れ」 「……え?」 「その猫はどうする?飼うなら乗せたままでいい。飼わないなら置いていけ」  犬上は動かない。猫は鳴いている。 「飼えない……でも、捨てられてたから……置いていけない……」 「猫のことは後だな。とりあえず乗れ」 「でも、」 「動けないんだろう。早くしろ」  犬上はのそのそと起き上がった。思っていたよりも彼は軽かった。一歩ずつ踏み締めながら斜面を登る。真後ろで仔猫が騒がしかった。 「おねぇさんだいじょぶ?」  男児が滑らないように前屈みになっているわたしに細い腕を差し伸べる。 「ありがとう」  転ばせてしまいそうでその小さな手を握るだけ握り頼ることは出来なかった。 「猫ちゃんいるの?」  足場が安定し犬上を背負い直す。男児はグレーの仔猫を犬上から剥がした。もう1匹の薄茶色のはわたしの肩に移っている。 「猫ちゃんだぁ。ぼく猫ちゃん好き」 「飼い主募集中らしい。そうだろう、犬上」  わたしの背中で犬上は頷いた。 「じゃあぼく飼うぅ!2匹飼えるよぉ~?ずっと飼いたいねって家族で話してたの」 「そうか」  男児はもう1匹の仔猫もわたしの肩から取っていった。両腕に抱えながら1匹ずつ腹を撫でている。まだ目が青い時期だ。 「この子を家に帰してから五十音に戻る。寝ていてくれ。なるべく揺らさないようにする」  背中でまた頷く感触があった。大した重みもなく堤防を抜けた道に出る。新興住宅地に出る。周りは畑だらけで肥やしの匂いがした。 「ぼく、あそこに住んでの。おにぃちゃん、怪我してるんでしょ?ここで大丈夫。また遊ぼぉね、おねぇさん」  男児は仔猫2匹を抱えて、何度かわたしたちを振り返っては手を振って新興住宅地のあるほうへ向かっていった。わたしはまだいくらか心配で小さくなっていく背中を暫く見送ってから元来た道を辿って五十音高校に戻る。すでに放課後で運動部が熱心に練習に励み、吹奏楽部の演奏が校庭に響いていた。 「すぐに運んでやれなくて悪かったな」  保健医に犬上を預けて保健室を出ると、下駄箱に向かうまでの窓から見える中庭で天地と山川がレンガの花壇に座っていた。あの2人はただならない関係らしく山川は天地の肩に撓垂(しなだ)れかかっていた。天地の手も睦まじそうに山川の肩を寄せている。彼等から目を背けたくなる。暫く病院には行っていない。その過去は捨てたつもりでまだ囚われている。苦手で、目を逸らしたいとは思うがわたしは天地と山川の姿から目を離せなかった。風貌はそれほど似ていなかったが雰囲気や空気感が彼によく似ている。恋人として選ぶ相手まで。彼が目覚めたんじゃないかとすら思った。甘い幻想だ。わたしの掲げた理想を知ればあの律儀な恋人は憤慨するだろう。呆れて物も言えないかも知れない。  天地がわたしの視線に気付いたらしかった。山川に気付かれる前にわたしは逃げ出した。 -雨土歌-  どこにいるの(あーし)のマイ激甘(スィスィ)ハニー。大体そんな感じの歌を口遊んでいた。サビしか知らないからその部分を何度か繰り返す。 「尾久山って結構音痴?」  ヌッと目の前にチャラチャラうるさそうなやつが出てきて仰け反った。心臓破裂するかと思った。雲霧だ。カラーコンタクトレンズ付けていて近くで見ると不気味。 「ビックリした…」 「そリゎ(おい)ちゃんたちが保育園・幼稚園くらいのとき歌だよなア?」  突き出た窓の桟に軽げに飛び乗ってオレはこいつを視界から外した。歌声が聴こえる。CD音源みたいだ。アカペラだけど。雲霧は歌が上手いってもんじゃなく上手い。ヤりドル同好会やめてコーラス部入っておけよ。 「昨日、アンタんとこの会長サンに身内(うちン)が世話になった」  雲霧は歌をやめた。黙ってる間の斜め後ろから見上げた姿は美人っぽいんだけどな。それはそれでこいつの良さが消えるのか。美人だなんて個性の平均化だもんな。 「彩波ちゃん?」 「嫌だけど礼言っとくぜエ。こリでも(ちょォ)優し~先輩だからなア?」  ぐるんって振り返って不自然な目の色がオレを見下ろす。 「じゃあ彩波ちゃんに伝えておくよ。わざわざそれ言いに来たのかよ」  しゃぶり尽くされるんじゃないかと思ってビビった。 「品行方正な生徒会長様はオマエと違って暇じゃねエんだろ」 「そのとおり。よくご存知で。ちなみにオレも暇じゃないから知っといて」 「あ、藁学だ」  雲霧は真っ黒なマニュアの塗ってある爪で窓の外を指した。 「藁学?なんで」  オレも「あ、UFOだ」に騙されるように窓の外を見た。夢旭と最近やたら(ツル)んでるって噂の藁学の生徒()だ。また夢旭に用なのかな。ちょっとなんか、イラっとした。いや、なんでオレがイライラするのさ。そんな義理も筋合いもないのに。 「誰か探してるぜエ?マイ激甘(スウィスウィ)ハニー奪られちまうなア?」  雲霧はケラケラ笑った。部長があれなら部員もこれだ。 「うるさいな」  藁学の生徒から目を逸らすと雲霧は変な色の目でオレを追った。 「朗報か悲報か、テメェのマイ(ベリー)激甘(スウィスウィ)ハニーは今日教室(ガッコ)来てましェ~ん。どう見る?」  それを言われた途端、回路図みたいなのが頭の中で瞬時に組み上がって答え合わせの衝動に駆られると雲霧を掴んでいた。今日は何がある?藁学の生徒()真っ先に迎える浅海が?インフルエンザ以外で休まない浅海が? 「痛ッ!」 「夢旭、もしかして江尾工行っちゃった?」 「…へへっ、(おい)ちゃんが知るかよ」  おとなしく話聞くタイプじゃない。やっぱり行っちゃったんだ。江尾工業高校って結構喧嘩強いところでしょ。井上学院がやられたからって挨拶しに来たんだし。あれは「自校(うち)を無視するな」って意味だよ。井上学院と江尾工業高校は別に仲良しってわけじゃなかったはず。殖蓮(うえはす)ってやつだけでもめちゃくちゃ強かった。夢旭1人でどうにかなる相手じゃない。ああいう喧嘩上等!みたいな流儀とか主義(ポリシー)持ってる奴等は2通りある。相手を見込んでいきなり大ボスが出てくるところ、大ボスを出し惜しみして番長(アタマ)以外には二軍三軍で迎えるところ。多分江尾工業は後者。井上学院みたいに侵入してきたら適当に相手しておくとか、番長(アタマ)がエンジョイ勢で気紛れに出てくるとかそんな甘い校風(ところ)じゃない。  外に出ると藁学の生徒がオレを見つけた。夢旭のことを訊かれる。親しいんだな。まるでオレが夢旭の何も知らないみたいに訊いてくるのがちょっと面白かった。これでも元・恋人(カレ)なんだよ?なんて腹の中でマウント取るオレは嫌なやつだよ。彼を振り切って校門を出る。五十音の南西。実は江尾工業高校って近いんだよな。でもチャリで行きたい距離だ。走っても行けるけど。マラソンするしかない。足は早いから。でも西口校門から出ようとしたとき死角から現れた人に通せんぼされた。 「へぇ、生徒会長の嬢ちゃんは戦慄(チキ)って逃げたのか?」  王様だった。腕を組んで威圧的な眼差しでオレを見る。 「夢旭が……もしかしたら、先走って…」 「アンタはただでさえ生徒会長の嬢ちゃんを裏切ってる。それは分かってんな?今アンタが行きゃ二重の裏切りだ。そこの理解は?」  何も言えなくなる。王様の言っていることは正しかった。足元を歩く蟻を見つめて頭の中は白くなった。 「悪ぃが、後輩(うちの)が昨日生徒会長サマに世話になってな。恩は返す主義(タイプ)なんだ。あの嬢ちゃんの(あずか)り知らないことでもな」  王様は制服の袖を捲った。カッコいいよな、絵になるよ。腕まくり萌えってやつ? 「ふん、身内間・個人間なら喧嘩していいんだろ?売文句(スローガン)は学校間の喧嘩排除だったもんな」  手首足首を回し始めて軽く飛ぶ。そんな準備運動まで何かの撮影みたいに垢抜けていた。 「分かった。でも引けないんだよな、オレも」  早く倒して、夢旭を助けに行かないと。倒せるか?こんなライオン皇帝(カイザー)みたいな人無理じゃない?オレも跳ねて軽く足首を慣らす。 「アンタのその行動はスイートハニーを持ってる益荒男(ダーリン)としては当然のことなのかもな。それは(オレ)様も認める。勝っても負けても誇っていいんじゃねぇの」 「その台詞言うの早くない?まだ勝ってもいないのに」 「ふん、(オレ)様が勝つから心配すんな」  アスファルトを蹴る。腰捻って膝を突き出す。綺麗な顔に傷付けたらあの測定眼鏡に悪いかな。回し蹴りは大きな手に阻まれた。足が地に着いた瞬間に片足を回した。脇腹に入ったけど掴まれてアスファルトへ叩き付けられる。追撃が来る前に慌てて起き上がった。でも王様もオレをそのまま起き上がらせるなんてことはなくて、重い一撃を掌で受け止めた。骨まで響く。腰上げて両足で王様の腰の辺りを蹴る。王様は後ろへバランスを崩した。負けられない。夢旭を追わなきゃ。でも多分ここで勝敗つけてたら間違いなく日が暮れる。大事なのは勝つことかな?違うだろ。夢旭が無事なら負犬でも勝犬でも引き分け犬でもなんでもいい。 「彩波ちゃんのことはよろしく」  オレは逃走を選んだ。どこにいるの、(あーし)のマイ激甘(スウィスウィ)ハニー。懐メロが頭の中から離れない。南西に向かって、世相(せそ)川を越える。チャリ殺し・心臓破りと呼ばれる大きな坂になっていて、その先には並木道がある。ずっと道なりに行って、国道沿い。江尾工業高校は市役所の近く。夢旭はもうボコされてるんじゃないかと思って。諦めが悪いから何度も立ち上がって、そのたびに殴られてるんじゃないかって。嫌な想像ばかりだ。オレが理事長の息子って知った途端、もう関わるなって言ってたけど放っておけるわけない。放っておかせるやつじゃないじゃん。ニューイヤーマラソンと同じコースを走って、ファストフード店の脇を通る。数年前にここで江尾工業の生徒が車と事故って死んだ。当時は地元新聞にも載っていた。地元民(じもピー)の無駄な情報。市役所の前を通って、もう江尾工業高校の校庭は見えていた。曲がって、塀をよじ登るでも垣根掻き分けるでもなく正門じゃなかったけどきちんと校門からお邪魔した。真後ろから手を引かれて驚く。顎までジャージの襟で隠れた小学生みたいなのが真ん丸い目でオレを見上げていた。なんで工業高校にこんな子供がいるんだ。女の子だ、多分。事案じゃん。しかも美少女。学校行けよ。 「おにぃさんの制服、ぼく見たことあるよぉ~」  こういうの、ぼくっ娘っていうんだっけ、ヲタクじゃん。かなり大きいサイズのジャージのポケットから小さな猫が2匹顔を出していた。 「ごめんね、おにぃさん今急いでるから」 「うん。さっきのおにぃさんも忙しそうだったよぉ~。あっちに行ったけど、今日何かあるのぉ?」  夢旭だ!夢旭に間違いない。指された体育館のほうに向かうつもりでいたけど小学生女児はオレの手を握ったままだった。 「あのね、お嬢ちゃん」  この御時世、ヤりドル愛好会の王様くらいしか「お嬢ちゃん」なんて言葉使わないし似合わない。寒気がした。 「ここは小学生がズカズカ入ってきていい場所じゃないんだよ。おにぃさんが見送ってあげるから帰りな!」  小学生の手を引いて敷地の外に出した。家だか小学校がどっち方面にあるかなんてよく考えもせずに適当な方角に突き離す。年上としての責任は果たしたよな?オレは見送るなんて言っておきながら小坊の手が離れると夢旭が行ったらしい体育館に急いだ。 -日風水世-  生徒会室には誰もいなかった。尾久山も姿を見せない。半ば残念で、半ば安心した。浅海の行動を見張っていてくれ、なんてわたしが言ったら尾久山は快諾するだろう。でもそれは少し悪いし気もする。しかし他に適任も見つからなかった。尾久山がいないのならこの部屋に用はなく、わたしはドアに背を向けた。 「あ…」  犬上が立っていた。長い前髪で表情はよく見えなかった。校則に引っ掛かるがわたしはふうきいいんでもなければ教師でもなく、今日は校則の検査日でもない。そして個々に注意していたらキリがなく、公平性を欠くことに対して文句も出る。気付いても目を瞑る。それが人間関係の構築には大事なことらしい。長いこと気付かなかった。 「こんにちは、犬上。足は大丈夫か」 「う……うん。あの、さ…あの…」  犬上は吃音(きつおん)症なのか円滑に喋れないようだった。急かすことなく言葉を待つ。 「なん……でも、ない…」  前髪の奥の猫のような大きな吊り目は床を凝視していた。 「そうか。きちんと怪我を治すことだ。半端にすると長引く」  これから指巣川に向かうつもりだったが浅海の動向が気になる。彼のクラスに顔を出すがゴムを渡されるばかりで肝心の浅海の姿を見つけられなかった。気にし過ぎならそれがいい。 「会長ちゅわアん…」  階段脇で声を掛けられる。ピアス、マニキュア、染髪、カラーコンタクトレンズ、一部私服着用などの犬上の前髪の長さが可愛く思えるほどの明らかな校則違反が目を引いた。苔室だ。 「どうした」 「犬上が世話になったなア?」 「大したことはしていない」  誰から聞いたのだろう。犬上が話したのだろうか。彼は著しく内向的な面が目立っていたが先輩後輩の連携が取れているのは良いことだ。 「浅海きゅん探してンだろオ?」 「そうだな。知ってるか」 「今日来てねエずェ」 「…そうか」  嫌な予感がする。このまま自分のクラスに戻ってもいいものか。 「(うい)ちゅわ~んには会ったかア?」 「いいや…」 「朝には見たけどなア?浅海きゅんは不在(いねエ)(うい)ちゅわ~んの姿もねエ…ここから導き出される答えはなアんだ?」  苔室は両手を後頭部に付けて廊下へ消えていった。導き出される答えは、尾久山は浅海を探している?殖蓮という江尾工業高校の生徒は尾久山を探していた。尾久山が拐われた?しかし尾久山は朝には居たという。浅海を尾久山が追っていった。まさか。わたしは結論とは反対に下駄箱に急いだ。生徒玄関を出てすぐの階段を駆け下りる。 「どこに行くんだ?生徒会長さん」  あの苦手なカップルと出会してわたしは思わず顔を逸らしてしまった。山川は天地に抱き寄せられ、胸に頭を預けている。 「ちょっと…急用で…」 「ふん、急用?それは江尾工業のデートの申し込みより大事なことか?」  山川の髪を撫で、頭に口付けながら天地はわたしを冷たく見下ろした。A。名前を知らず、恋人はその者の名を口にしていたが、わたしは内心でさえどう呼んでいいのか分からず、今までAと呼んでいた。天地はAにその眼差しまでよく似ている。わたしを恨みに来たんじゃないかと、足が竦む。手が震える。 「或いは…」 「はん、本当か?考え直せ。生徒会長さんが相手するから浅海と尾久山はお留守番って話じゃなかったか?アンタ、あの2人のこと無下にする気じゃぁねぇよなぁ?」  わたしは無意識に後退ろうとしていた。威圧感も雰囲気も喋り方もすべてが苦手だ。声まで震える。 「指巣(さしす)川にはきちんと向かうつもりだ。だが…」 「やることきっちり分かってんならいい。放ったらかして悪かったな?許せ」  話は彼の中では終わったらしくおとなしくしていた山川の顎を掬うと噛み付くように口付けた。 「ぁ…んっ」  見てしまうのは悪いと思い彼等に背を向け階段を上がる。自分の教室に戻りながら尾久山に随分と依存している自分に気が付く。尾久山のことは心配だ。浅海のことはもっと心配だ。だがここは天地の言うとおり、わたしが勝手に取り付けてしまった約束をきっちり果たす。それがわたし個人ではなく五十音高校の生徒会長の務めらしい。  指巣(さしす)川に向かうため校門を出ようとしたところで楢恒(ならつね)が待っていたらしく校銘板の下から立ち上がった。藁山学園の制服は伝統的でありながらモダンな雰囲気もあり洒落ているというのに大きく着崩している。この他校生の染めて傷んだ髪や眉にある傷痕を眺めた。 「浅海探してんだけどよ」 「浅海はいない」 「…何があった?」 「何度も同じことを言うがここには来ないことだ」  決まり切った台詞を吐いて指巣川に向かう。天地と話したからか、掻き乱される感じがあった。もしくは尾久山が理由も分からず不在だからか。浅海から目を離したのは迂闊だった。後悔ばかりだ。何も学びやしない。殴って、投げて、叩き付けて蹴り上げた他校生たちの姿がふと脳裏を過った。Aはそれを生き甲斐のように語っていたが、わたしには人を殴ることに何の快感もなかった。何も分かり合えそうになかった。"曲がりなりにも"女だからか。天辺(てっぺん)を獲ることに、やはり何の興奮も感慨も。"曲がりなりにも"女だから理解出来ないのか。それならわたしは適任だ。その責務とまだ残っている期待に板挟みになる必要などない。  指巣川沿いの公園に殖蓮らしき大男の姿があった。途中、後ろから何人か付いて来ているのは気配で分かった。 「待たせてすまない」  堤防の斜面を降りて川の真横に出る。リングアウトすれば水浸しだ。 「約束どおり来たんだな」  殖蓮は丸太のように太く逞しい腕を組んだ。 「用件はなんだ」 「質問にだけ答えろ。藁学と手を組むつもりか」 「いいや」  推測の範囲だが、井上学院も殖蓮と同じことを考えて五十音に手を出したのではないかと思う。外部(はた)からは五十音から襲撃したように見えるらしいが。 「何故藁学の楢恒が五十音に入り浸る?」 「把握し切れていない」  殖蓮は剃られた眉を片方上げた。呆れが滲んでいる。わたしも自分が情けない。

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