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第6話
-日風水世-
天地は生徒会室のソファーにいた。朱鳥 さんもいた。天地はテレビで観たことのあるホストクラブのように縮こまる朱鳥さんを腕に入れていた。彼女の反対には山川も座っていた。天地の胸板をベッドにするかのように身を預けていたがわたしが対面に座るや否やすぐさま身形を正し、一礼して退室する。
「朱鳥さんはどうされた」
「あ…尾久山くんは大丈夫かな…って。昨日元気無かったし、今日もいきなり居なくなっちゃうし…」
少し俯いて彼女は言った。長い睫毛が素速く上下していた。鈴の鳴るような声に惹かれて話に集中出来なくなりそうだったが持ち堪える。隣の天地は見透かすような冷やかすような笑みを浮かべていた。
「尾久山は大丈夫だ。安心して欲しい」
「良かった。ごめんなさい、長居して。元気なら良いの」
大きな目がずいっと近くなりわたしは驚いてしまった。彼女はソファーから立ち上がってわたしの傍に来ると手を取った。少し冷たく、柔らかくしっとりしていた。
「ありがとう、彩波さん」
それじゃあまた明日。健康的な色の唇が弧を描く。艶やかな長い髪がたなびいた。耳に残ってはいるが何が起きたか分からずに呆ける。
「ふん、やるなぁ、あの僕ちゃんも…今の彼女も」
天地の軽率な感じのする喋り方で我に帰る。
「天地、君の用件は」
「はん、これ返しに来たんだよ。ずっと持ってるのもダルいからな」
テーブルにわたしのスマートフォンを置いた。
「カバー無し、待ち受けデフォルト、2世代前。王 様のと丸かぶりで紛らわしい」
「間違ってないな?」
テーブルに置かれたスマートフォンを手に取る。パスコード入力を求められた。
「6789はやめとけ。王 様とかぶる」
彼はわたしが押していく番号を先に口にした。
「…そうか」
ほんの短時間 見ないうちに瑕 が随分と増えていた。落としたりした覚えはなく使用頻度も低かったはずだ。経年のものだろうと納得させる。
「いや、そっちが王 様のだな。その背のキズあんの王 様のだわ」
気付いてよかった。スマートフォンを突き返し、わたしのスマートフォンを返してもらう。あまり瑕のないスマートフォンを一応確認しておく。データを見てもわたしの物で間違いなかった。
「お困りなら手ェ貸すぜ」
長い脚を組み変えて天地は言った。
「特に何も困っていない」
「うちの生徒会長様をボコられて、へぇ終わりってのも胸糞悪ぃ。要はあの僕ちゃんにバレなきゃいい」
何を言うかと思えば天地は歴史ドラマでよくある悪代官のようなことを言った。
「聞いていたのか」
「ま、紆余曲折あってな」
大仰に肩を竦めている。その紆余曲折を問うか否か。わたしはまったく天地の存在に気付かなかった。しかし江尾工業がもし気付いていたら。終わったことを掘り返すのは好きではない。彼はわたしの不信感に敏く気付いたらしかった。
「ふん、あの川はお嬢ちゃんたちだけの場所じゃねぇんだ。王 様がザリガニ釣りしてたっていいわけだ」
「そうだな」
「真赤喇蛄 を釣り上げようとしたって何の文句もねぇだろ?」
意外な趣味ではあったが天地の言うとおりだった。
「ドルアイの道は泥臭さから。立派な部活動なんだ。怖ぇカオしねぇで大目に見てくれや」
「怖い表情 をしていたか。疑ってすまなかった」
「いや?じゃ、話はそれだけだ。とりあえず、ひとりでボコされようなんざ思わねぇこった。寝覚めの悪ぃ真似すんなよ」
天地は軽薄に笑って生徒会室から出て行った。ひとりでボコされたのは君だろう。内心そう思った。だが天地ではなかった。会長机の前の椅子に座って真横の窓を見上げる。日が沈んでいく。生徒会室は真っ暗になった。藁山学園のあの男子生徒はもう来ないだろうか。
軽快な音と共に室内は明るくなった。部屋の入口に男子生徒が立っている。犬上だ。
「どうした?」
「え、えっと……その、」
犬上は俯き、長い前髪で顔を見えなくした。
「座るといい。足はもう大丈夫なのか」
わたしは会長用の椅子から応接用ソファーへ移った。犬上はドアの前から動かない。
「今日……大変だったって、聞いた…から、」
犬上はぼそぼそ喋って、わたしの前のテーブルにイチゴ牛乳のパックをスッと置いた。
「昨日…の、お礼……こんな物で……だから…お疲れって……」
上手く物を伝えることが苦手らしかった。すぐに消費できるもので、安価であり、わたしに買ったのなら断るのも申し訳なかった。
「ありがとう。いただくよ」
「そ、れだけ……」
「気を付けて帰れ」
犬上は頷いて出て行った。わたしはイチゴ牛乳のパックに手を伸ばした。
『っざけんな!』
怒鳴り声が聞こえ、廊下に飛び出る。犬上が尻餅を付いていた。その先には浅海が社会科資料室から出てきた苔室を睨んでいた。尻餅を付いている犬上の傍に寄る。彼は両耳を塞いで首を振った。苔室がすぐにわたしのところにやって来て追うように頼んだ。犬上のことを任せて浅海を追う。
「おい、浅海!」
浅海の姿を見失う。体調は良くなかった。そう遠くまでは行っていないはずだ。廊下を確認しながら1階まで降りると浅海の姿が横から伸びて来た手に引っ張り込まれ視界から消えた。
「おい、浅海」
やつの消えた場所を覗くと背が高く痩身な男子生徒がわたしを見て無邪気に笑った。三つ編みにしてあるため一応のところは風紀委員も目を瞑っている長く黒い髪は顔写真の段階でも強く印象に残っている。榎 成玲 。アイドル同好会の申請書の部員欄に入っていたはずだ。
「捕まえた、浅海。王様のお土産食べる、ヨロシな?」
榎は軽々と浅海の背後から抱き留め、口元と腰を押さえていた。お気に入りのぬいぐるみを手放さない子供のようだった。
「…ッんんっ!」
浅海は首を反らした。身体が小刻みに震えている。榎の抱き方に少し無理があるのかも知れない。
「浅海を離せ。体調が悪いんだ。保健室に連れて行く」
「体調、最悪 、チガウ。ワタシ知ってる。王様から聞いた」
榎は浅海の口元を押さえたまま首元に顔を寄せた。浅海は胸元を突き出すようにして背中を弓形に反らした。
「浅海、媚薬、盛ってある。抜いてあげる、決めた。クスリも、アソコも」
「…っ放、せ……っ」
「身も心も、委ねる、ヨロシ。ワタシ、痛いこと、しない。気持ちいいこと、する」
浅海は暑そうだった。榎から逃れようとするたびに強調されるスラックスの膨らみに気付いてしまう。どうする?尾久山の気持ちは知っている。わたしが引き取ってどうにか出来るものか。榎に任せていいのか。
「…っ放せ、……やめ、っぁっ」
榎の手が浅海の顎に移り、腰を抱く腕が強まったらしく2人がさらに密着する。
「王様、お土産言った。起きたらみんなで味見。仲良くファックする。みんなでファックすれば、仲良し。浅海も、みんなと仲良し、ヨロシね?」
浅海に頬擦りしながら榎は言った。声は優しいが言葉は物騒だった。
「ざ、けん…なっ、あっ……っ、」
目に入るものすべてに敵意を向けるつもりか浅海は涙ぐんだら目でわたしを威嚇した。
「いいや、浅海は預かる」
榎は口をヘの字に曲げた。
-雨土歌-
最低だ。夢旭は怒って出て行った。オレは絶賛自己嫌悪中だった。追おうとしたのに足が動かなかった。雲霧は黒猫みたいな男子連れ帰ってトイレに行った。黒猫みたいな男子は夢旭が寝てたところに座ってずっと頭を抱えていた。彩波ちゃんが夢旭を追ったらしいけどこんなことにまで彼女を巻き込んでいいわけがなくて目の前の黒猫みたいな男子を置いてオレは階段を降りた。夢旭を探さないとだった。
「おっと~尾久山先輩ちっす~ヒヒッ」
階段前で金髪赤メッシュとすれ違う。
「お、おうっす」
スマホでパズルゲームしたまま一切オレのほうを見ずに喋る。
「良かった~、今帰りっすよね?流石にホモパコ見ながらは勘弁っすわ~。ほんとセクハラ~。ボクちん異性愛 なんで。じゃ!」
こいつはとにかく失礼なやつで、舌が蛇みたいに割れている。スプリットタンってやつだった。それからブレザーとシャツのボタン全開でその下に変なシャツ着てる。今日はゆるい書体で「ぽぽたんコーヒー」と書いてあるシャツを着ていた。呆れながら階段を降りる。一番呆れてるのはオレにだよ。なんで夢旭の前でサカッたんだ。普通元・恋人 の前でサカるか?そういうプレイは確かにあるだろうけれどもさ。夢旭、君に勃ったんだよ。そんなチャチな言い訳が利くか?利いたら利いたで困る。夢旭は成績は悪いけどバカじゃない。
「夢旭~、ごめんなぁ」
あの身体中違和感だらけの不思議な魔法の時間はもうすぐ終わるみたいだった。夢旭にまた拒絶されるのは、しんどい。夢旭を呼ぶ声は小さくなってしまう。臆病なのはよく分かっているつもりだ。絶交を告げられた日、オレは縋り付くこともしなかった。それ以上嫌われたくない一心で、それ以上傷付くことを言われたくない一心で、潔く素直に言われるまま呑んだ。階段を降りる。ただひたすら階段を降りる。途中で馬鹿らしくなる。絶交を告げられて、呑んだだろ。嫌われたくなくて呑んだだろ。傷付きたくなくて呑んだだろ。たとえ何人とセックスしたって、初めて付き合って初めて別れたたった1人の相手だから執着してるだけだ。江尾工業に行ったのは夢旭が無事じゃないと思ったからだ。指巣川に行ったのも、夢旭は怪我はしているけど無事だった。今は五十音にいて、彩波ちゃんが追っている。夢旭にとってもそのほうが…
「尾久山、寝取られ、ヨロシな。会長 さん、浅海をファック。尾久山、ワタシが相手する、ヨロシな?」
背後から絞め殺されるのかと思うほど強く抱き付かれた。イランイランの匂いがする。異国情緒系のエスニックなお店でよく漂ってる匂い。お香とか紐のお守りとか骨でできたアクセサリーとかの。
「いいて、いいて。相手せんでいいて」
髪の毛めちゃくちゃすりすりしてくる。ヤりドル愛好会の三つ編みだ。オレのこと犬か何かと勘違いしてないか?
「夢旭に会ったのか」
「浅海、会長 さんと保健室、行ったの見たヨ。時化 込む、言う、ヨロシか?」
彩波ちゃんが浅海と、保健室に…。なんで?そんなのシケ込むために決まってるじゃん。
「浅海、なっから興奮してたアル。媚薬抜かない、身体に超最悪 。ヨロシね?」
三つ編みはオレの髪をすりすりしたまま言った。
「会長さんは、犬上のこと、助けてくれた。犬上は一番弟。みんな、犬上のこと、大好き。ワタシ知ってる。今日のところは、会長さんに従う。ワタシ、恩はすぐ忘れる。だからすぐに返す」
両腋を抱えるように階段の上へ歩かされる。こいつの言った保健室から遠ざかっている。彩波ちゃんなら大丈夫か…?彩波ちゃんなら…オレは彩波ちゃんに世話になっていて、尊敬もしていて、とてもそうとは言えないようなこともしたけど信用してるんだ。
「…」
「尾久山、みんなと遊ぶ。みんな、喜ぶ。部活、楽しくなる。ヨロシな?」
建前なんてクソ喰らえ。夢旭のこと放っておけない。上履きの裏のグリップ利かせて三つ編みくんの押す方向から転換する。
「オマエ、どこ行く。会長さんの邪魔今日はさせないアルよ。オマエ、ワタシと上に行く、早よするアル」
「夢旭に会いに行くんだよ!会長さんの邪魔はしない」
三つ編みくんの鳩尾を肘で打って長い手足から逃れる。もうほとんど酒抜けてるだろ、オレ。擦り抜けて保健室に走る。でもラスト2段で足を踏み外した。アドレナリンがどどっと流れててらてら照るタイプの廊下が視界の中に広がっていく。肘が固定されて重力に逆らう。床が出てる釘に靴の裏の窪みを引っ掛けて床から斜め45度前傾姿勢を保つっていうダンスパフォーマンスを昔見たことあるな、なんて頭は現実逃避していた。
「顔傷付く、尾久山取り柄なくなる、アワレ」
三つ編みくんの声が背後から聞こえる。掴まれていた肘が放り投げられてオレはよろけながら階段を降りる。
「顔だけか、オレ…」
「オマエ、後で相手する、ヨロシな。ケツ穴ファックする、ヨロシな」
「絶対嫌だ」
冗談を言い合ってる場合じゃなかった。保健室に急ぐ。こういう日に限って保健医がいないのはお約束なんだよな。…と思ったら居た。え、じゃあ夢旭どうしてんの。保健医の四方 先生苦手なんだよな…何が苦手ってって話じゃないんだけど。保健室をちょろっと覗く。
「どうした?尾久山」
四方先生だ。
「いや…別に…」
「保健室覗いて何も無いなんてことは無いだろう?誰にも言えない悩みでもあるのか?いつでも相談に乗るぞ」
体育教師ってのとも違って、保健医ってイメージともまったく違って、見た目はサッカー部、気風は野球部って感じでめっちゃ爽やか。距離感は幼馴染のお兄さん。女子の一部にはめちゃくちゃモテて男子には万遍なくめちゃくちゃモテる。黒髪短髪に白い歯に鼻に絆創膏。
「いや…浅海クン見ませんでした?」
「浅海?来てるぞ」
四方先生はカーテン閉じてるベッドを向いた。
「無事なんですか」
「ちょっと熱があるな。仁王が看てくれているぞ」
さすがに保健医が室内に居るのに彩波ちゃんが夢旭をどうこうするわけない。そもそも彩波ちゃんが夢旭をどうこうするなんて、そんな。
「先生もそろそろ職員会議があるから行かなきゃならないんだ」
「ああ…そうです、か…」
「みんなで帰るなら戸締りよろしくな」
オレの頭をぽんぽん叩くとドアの看板を保健医不在に差し替えて四方先生は出て行った。絵に描いたような運動部の高校生が白衣を羽織っているように見えて何度目にしても違和感があった。しかも生徒の頭撫でていく。一応セクハラな。
「夢旭…?」
保健医がいなくなってオレは閉まったカーテンに近付いた。
「浅海」
カーテンの奥から彩波ちゃんの声が聞こえた。
「おま、ふざけっ……っん、ぁアっ!」
夢旭の声が聞こえてカーテンを開けてしまう。ベッドには腰を突き上げた夢旭と脇でパイプ椅子に座っている彩波ちゃんがいた。彼女は夢旭の突き上げた下半身に手を伸ばしていた。オレと繋がってた場所に彩波ちゃんの細い指が入っている。
「わたしは帰る。あとは頼んだ」
彩波ちゃんは夢旭の引き締まった尻から指を抜いた。
「ッぁあっ!」
「彩波ちゃ…」
夢旭は彩波ちゃんの物らしきハンドタオルを噛んで真っ赤な顔をしていた。オレは彼女の腕を掴んで止める。
「さっき言い忘れていたことがある」
「何…?」
「今度から、浅海を見張っていて欲しい。頼む」
ベッドの上で真っ赤な顔に濡れた目がオレを憎らしげに見ていた。肩で息をしている。彩波ちゃんはオレの返事も聞かず保健室を出て行った。
「触んな……くそ、っ……」
オレは彼女の体温がまだ残っているパイプ椅子に座った。夢旭の下半身には薄いグレーのカーディガンが敷かれていた。白く汚れている。
「薬、抜こうか」
「触んな……っあっぁ、…」
肌に触れるだけで夢旭は背中を逸らして腰を揺らした。少し柔らかくなっている穴には指が2本入った。
「や、め…っ!」
彩波ちゃんのカーディガンにまた白濁が飛んだ。
-日風水世-
一方的過ぎたか?しかし他に手がなかった。外は真っ暗で荷物を取りに階段を上がった。榎がうんうん、と訳知り顔をして踊り場に居た。
「楽しみを奪ってすまなかったな」
「ヨロシ。部室寄っていく、尚ヨロシ。お土産ない、みんな寂し」
みんな、みんなと榎は言う。漠然としているが彼の中では1人としての役割を果たしたいのだろう。
「榎はあの部が好きなんだな」
彼は黙ってしまった。階段を上がるわたしと行く方向が同じらしく斜め後ろに付いた。
「言葉に甘えてアイドル同好会にお邪魔しよう」
そろそろ部活動終了時間に迫っているが犬上の様子も気になった。ドアに手を掛けたが横に開きはしなかった。後ろから伸びた手に押さえられている。
「犬上は怒鳴り声とか苦手なの。昔交通事故に遭ってトラウマになってるんだって。覚えておいてネ」
榎か?普段よりも低く落ち着いた喋り方をしていた。振り向く。八重歯がマスコットキャラクターのような雰囲気を醸し出している顔立ちでヘラっと笑っていた。
「ささ、お邪魔しやがる、ヨロシ。おもてなし、返り討ち、なんでもゴザル」
ドアがスライドする。視線が集まった。犬上はソファーに座っていた。対面には苔室が足を組んでリラックスした様子で座っていた。その奥の余った生徒用椅子には金髪に赤いメッシュの男子生徒がスマートフォンをいじっていた。彼は地毛が金髪でその申請は出ていたが顔写真の段階で赤いメッシュは入っていなかった。名前は布施サリューン悠和 。
「ささ、早よ座る、ヨロシ」
榎は苔室をソファーの端に寄せるとわたしに犬上の正面に座るよう促した。
「大丈夫か、犬上」
彼は俯いたままで長い髪がカーテンのようだった。顔は見えなかったが頷いている。
「浅海はどうなったんだア?」
「尾久山に任せた」
「…ああそうかい。これで元鞘に収まりゃアいいんだがなア?」
常に喧嘩腰で食い気味の苔室が空けた妙な間が気にはなったが深く考えることではないのだろう。そういうこともあるはずだ。
「どうだろうな」
「なんか問題でもあンのかよオ?」
「わたしが聞きたいところだ」
榎が肩を竦めた。サリューンはスマートフォンに対して何か呟いていた。犬上は相変わらず俯いたままでいる。
「浅海の前で愛 ちゅわんとヤってやったんさなア。そうしたら浅海がキレやがってよオ。もう別れたって聞いてたんだけどなア?」
「形式上は、な」
苔室は鼻で嗤った。
「形式上も実質上も知ったこっちゃアねぇなア。浅海が尾久山捨てたんじゃア、俺 ちゃんが尾久山奪ったって何の問題もねエよなア?」
舌ピアスを見せて苔室は下から滑るようにわたしを睨んだ。息が掠めそうだ。
「わたし個人としては構わないが、その宣言の意味するところをお前自身は分かっているのか?」
「あア?」
分かっていないらしかった。苔室は首を傾げる。
「ハハッ!無駄っすよ~。その先輩 、勃起するかしないかでしか物測れないから!」
スマートフォンから目を離さずサリューンが口を挟んだ。大きな独り言かと思えたがどうやら聞いていたらしい。
「ンだア?」
苔室は室内に居る面々を窺った。本人に態々 指摘することでもないのだろう。そのうち部活動終了時間の放送が流れる。天地と山川が帰ってきて帰宅を促す。尾久山は少しずつアイドル同好会の在り方を批判するようなところがあったがきちんと部活動として機能しているようだった。天地はわたしが社会科資料室から出て階段を降りるまで見送った。客人は見送る主義らしかった。
帰路の途中にある廃工場で不穏な音がして足を止めた。地域住民もあまり寄り付かない。朝や小学生の帰る時間帯には有志の人々で旗振りや挨拶運動の地点になるほどだった。五十音高校から近いだけに見過ごすことは出来ない。寂れて茶けたり欠けたりしている亜鉛鍍鉄板が不気味だった。肉を殴る鈍い音と呻めき声。よく知っている物音が聞こえた。五十音高校の生徒ではないことを祈った。わたしは廃材を手にする。わたしが殴るよりは手加減出来ることを知っている。スマートフォンのライトで中を照らす。複数の足音が去っていく。わたしのローファーの音だけになる。奥へ進むとライトは黒の革靴を照らし出した。スラックスは五十音高校のものではなかった。白ラン。井上学院の制服だ。サングラスが割れている。逢沢だ。尾久山と話していた姿はよく覚えている。真後ろから気配を感じた。振り向く。避けるわけにはいかず、逢沢に被さりながら頭を下げ、背を打たれる。逢沢は小さく咳をした。ライトを点けたままのスマートフォンを拾う間もなく手にした廃材のパイプを黒く塗り潰されたような人影の腹をテニスラケットのようにして入れた。大した反撃にはなっていなかった。顎下から拳が飛ぶ。わたしの身体は後ろに転び、反射はそのまま蹴りを繰り出しながらの立て直しを試みていたが、喧嘩は本意ではなかった。途中でやめたため、背に何者かの脛が入った。地面に叩き付けられ、そのまま逢沢の傍に這う。頬を軽く叩いてみる。廃材パイプを護身用に構えながら片手で白ランを揺らした。
「逢沢、起きろ」
スマートフォンを手に取り、黒い影を照らした。しかし複数の足音はわたしが入ってきたところから逃げていく。光は届かなかった。
「oh…クーデターだねぇ」
逢沢を叩き起こすと彼は呑気に言った。
「クーデター?じゃあ今の奴等は、」
「That's right。身内だよ」
面倒なことになっている。尾久山に報告、連絡、相談しなければならない事柄だというのに気が進まなかった。
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