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第10話

-日風水世-  犬上と途中まで一緒に帰ることになり、わたしたちが使っている玄関に通じる階段を降りてすぐの1年玄関の前で彼を待っていた。少し前にわたしが降りてきたばかりの階段から足音が2つ聞こえてくる。見上げるとひとつの傘に収まった尾久山と山川だった。意外な組み合わせだと思った。 「あ、彩波ちゃん」  尾久山もわたしに気付いた。空は雨ということもあり暗く、頬に貼られた湿布が浮いて見えた。 「渡し忘れてた。これ、なんかコーヒー代とかって藁学のコから」  尾久山は山川の傘から抜け出しわたしに小銭を2枚渡した。奢ったつもりだが情勢を考えるとそうもいかないのかも知れない。 「ありがとう」 「今日は、その、行けなくてごめん」 「そういう日もあるだろう。気にしないでくれ」  山川が少しだけ距離をとって待っていた。1年玄関から犬上もやって来る。直属の先輩である山川に会釈してわたしのもとに寄った。傘を持ち替えて彼側に寄せた。 「さようなら。また来週会おうな」  尾久山は手を振って山川の傍に向かって行った。山川は一礼してから背を向ける。犬上はわたしたちとは反対の門に向かっていく2人を不思議そうに見ていた。 「なんか……いつもと…少し違う感じがした…」 「尾久山がか?」  犬上は首振って遠慮がちに山川の名を口にした。わたしにはいつもと同じように思えたが、近くで長く見ていると分かることもあるのだろう。 「上手く…説明できない、けど……」  門に消えかける2人をわたしは一度振り返った。尾久山が少し落ち込んでいることだけは見ずとも分かった。山川については天地と恋人関係にあることくらいしか知らない。 「山川先輩は…人の悩み事には、敏感だけど……自分のことあんまり話さない。いつかぽっきりいっちゃいそう」 「山川に何か悩み事がありそうなのか」 「…分かんないけど。分からないし、思い過ごしだと思うけど…」  犬上はたどたどしく話した。傘から落ちる滝のような雨水に当たりそうになって細い肩を寄せた。 「あの部活は楽しいか」 「うん……みんな自分勝手で…好き放題やってるし、自分自分って人たちだけど……2番目にはみんなのこと、考えてくれるから…」 「そうか」 「仁王先輩は…生徒会、楽しい?」  彼はわたしを覗き込む。まだ半乾きの前髪が纏まり横に流されているせいで、普段は隠している吊り気味の大きな目が露わになっていた。 「掲げた目標が目標だから、大変ではあるが…やり甲斐はある。楽しいかは分からないが、苦痛ではないのは確かだ」  楽しいか、という質問は投げかけられると案外難しかった。楽しいという明確な感覚はない。だがフェンスを越え屋上から見渡した風景が今では違う世界のもののように思えた。だからあの日、あの時間に屋上へ来た尾久山には感謝しかない。名も顔も知らず、はじめは野次馬か何かの軽率そうな生徒だと思った。実際は面倒見の良いお人好しだった。飽いた日常が変わっていった。結局は保守的に生きることこそ平穏だった。喧嘩に明け暮れ、拳で成り上がり、上を目指すなどという文化や価値観をわたしは理解出来ない。狂気ともいえた。だがすぐ傍にあった。そしてその文化に身を投じたこともある。 「仁王先輩……氷見入先生って、分かる…?」  氷見入先生は物理や化学、生物の担当が主立っているが他学年やほか学科によっては数学と語学も担当していた。女子生徒や女性教師たちに人気があるらしく、男子生徒からも畏怖嫌厭(いふけんえん)とまではいかなくても敬遠されているようなところがあった。アイドル同好会の顧問だったはずだ。 「ああ」 「……オレ…あの人、苦手だ」  顧問が苦手という部員の話は割とよく聞く。週5で活動している部は金曜日にミーティングの時間が設けられている。アイドル同好会は同好会では珍しく週5で活動予定になっていた。そこには顧問の了承が要る。そしてアイドル同好会はまだ同好会ではあるが、部費がほぼ学校からは降りないだけで一応のところは野球部やサッカー部、吹奏楽部などとほぼ同じ扱いになっている。 「そうか」 「天地先輩は、あんまり……人に頭下げるとか……頼み事とか、出来ないタイプでさ…」 「何となく想像がつく」 「…氷見入先生に、山川先輩が……頼んだんだ…」  部の申請の時も部長代理として山川が来た。最初わたしは詭弁に思えて承認していいものか迷い、副会長たちは反対していたが傍に居た尾久山に一生徒としての意見を聞いて承認することにしたのだった。 「…なんか、オレは……やっぱり、なんか…」  犬上は抑圧されたような物言いで何か悩みでもあるようだった。猫背で肩を縮めるような姿勢の寒そうな姿を見つめる。 「どうした」 「名前がさ、……ふざけてるじゃん、アイドル…同好会って。いっぱい断られたんだ、顧問の先生やるの」 「わたしも無難な部活ではないだろうとは思っていた。だから当初は承認していいのか迷っていたが、承認して間違いはなかったようだ」 「う、うん…」  犬上と別れる道になり傘を差し出した。彼は首を振った。そしてタオルをわたしの肩に掛けた。ブレザーの撥水機能を上回る量の雨水により色を変え、濡れていた。 「あ、りがと。タオル……使って…気付かなくて、ごめん…」 「いいや、ありがとう。借りるぞ」  わたしは犬上を見送ろうと突っ立ていた。彼もわたしを見て立ち尽くした。何がまだ言いたいことがあるのかと首を傾げて促した。また癖のように犬上は首を振った。 「じゃ…また」 「ああ、さようなら。また来週」  犬上は手を振るが歩き出す様子がなかった。見られているのが心地悪いようだった。わたしも手を振り返し、悪い気はしたが先に背を向けた。傘も借りてしまった。風邪をひかないといい。あまり健康優良児という印象を受けなかった。彼は少し山川のことを気にしているような節があった。わたしもいくらか山川の様子に留意したほうがいいのだろう。それとは別に、アイドル同好会とみていいのか犬上個人として扱ったほうがいいのか氷見入先生と折り合いが悪そうなところもまた留めておこうなどと考えながら帰宅した。 -雨土歌-  何かあったら相談しろよ。その一言がなんでか言えなかった。オレの性分(ガラ)じゃないし、測定眼鏡ことヤマカワクンの印象(ガラ)でもない。無言のままで気拙いけど話すことなんて元々なかった。またスーパーの前で山川は別れると言った。傘を持ってないオレに傘を差し出してきてちょっと迷った。でもここで王様(カレシ)と待ち合わせてるのか。 「ほぉん?妬かせてくれるじゃねぇか、僕ちゃん」  外は暗いから柱の裏から逆光して影絵みたいになってる例の人が目の前にやって来た。 「あんたが(オレ)様の恋人(シュガー)の傘を使うのは気に入らねぇ。(オレ)様のを使え」  スーパーと王様の組み合わせが似合わなくて、中の明かりが水上都市とか観光地の高級ホテルの照明みたいに見えた。 「えっ、いいよ。返すの面倒臭いし」  ビニール傘だけど。 「ふん、返されねぇ間は運命恋人(スウィーティー)と相合傘が出来るってわけだ」 「ダルいな。借りますよ、借りますとも」  気は進まなかったけど王様のビニール傘を借りた。大きめで割りかし作りがいいやつ。オレは何も無かったことにして山川のことは別にオレが気にすることでもないってことにしてさっさとバの付くカップルに背を向けた。 「尾久山」  尾久山の僕ちゃん、僕ちゃん以外の呼び方、レパートリーにあるんだな? 「大丈夫、すぐに返してやるから」  相合傘なんざさせるかって話で。 「ありがとうな」 「はぁ?何が…」  傘借りといて礼言われるのはなんか、却ってムカつくな。特に王様に限っては。 「相合傘の口実を作ってくれて?」  振り向いたらもう王様は山川の肩を抱き寄せて肩がはみ出てた。大柄な男2人入るようには出来てないもんな。精々男女だよ、平均的な体格の。 「ふん。それもあるが、送ってきてくれただろ」   強い眼差しみたいなのは金縛りに遭ったみたいになる。たまに彩波ちゃんもそういう目付きになる。もしかして山川と氷見入のことも知ってるんじゃないかと思わなくもなかった。でもあれだけ溺愛してる恋人(スウィーティー)だかフルーティーだかピーチティーだかが知らないけど、山川が良いようにされてるんじゃ何かしらするだろ。オレが気にしてるだけか?はいはい、バーナム効果、バーナム効果。考えるだけムダだし、オレはこれ以上首突っ込む気はないから、あとは山川が誰かに相談するなり氷見入を拒絶するなりで自分で解決することだ。なんかドッと疲れた。明日は休み。長い1週間が終わる。このままクリーニング屋寄ろうと思ったけどもう遅いから明日には彩波ちゃんのカーディガンをクリーニング屋に受け取りにいって、それから。 「あ」  スーパーの前をオレの帰り道に沿って歩くと次は100円均一にぶちあたる。その軒下に見覚えのあるピンクのパーカーがうんこ座りして雨降って寒いのにアイス食べてた。顔見知りじゃ無視ってわけにもいかないから近付いた。 「よオ、(うい)ちゅわん…」 「寒くないの?」 「まアな、ずっと(あち)いよ」  雲霧のカラコンはオレのこと見ないで水溜りをきょろきょろ見てた。カエルでもいたのか?いや、このまま上目遣いされても気持ち悪いけど。 「熱あるんじゃない?バカは風邪ひかないらしいけど風邪に気付かないだけだから気を付けろよな」 「バッカじゃねエの」 「傘ないのか」  雲霧は追っ払うみたいに腕を後ろに払った。 「こっち方面だろ?入ってけよ」 「はア?」  威嚇するみたいに雲霧は言った。こいつのこと知らなきゃただの素行(ガラ)の悪い兄ちゃんじゃん。 「借り物なんだよ。何かばつが悪いし」  しかもこいつの所属(ところ)の部長から。 「おめエ、浅海きゅんに悪いと思わねエのかよオ」 「雲霧ってそういうの気にするんだ?」  貞操観念ガバガバに思えたけど。雲霧はアイス齧って立ち上がるとオレに寄った。それでアイスを口に押し付けてきた。口元汚れるから半分残ってるアイスもらう。要らない。 「(おい)ちゃんのことなんだと思ってんだア?」 「まぁ、夢旭には玉砕だし、雲霧と相合傘したって別に変な意味はないし」  雲霧はどこかの王様とかどこかの眼鏡とかどこかの三つ編みと違ってオレより背が低いから可愛いよ。相合傘してもいい感じに収まる。夢旭とは大体同じくらいだからどっちか濡れる。夢旭が濡れるくらいなら、オレが濡れたい。 「(おい)ちゃんよオ、会長ちゃんとヤった」  彩波ちゃんと?ヤりたがってたもんな。あんまりそういう話、嫌だな。下ネタは嫌いじゃないけど、彩波ちゃんのそういう話はね。 「なんかよオ、会長ちゃんとヤったらよオ…スッとした」 「下半身が?」  雲霧のほうがオレを軽蔑したような目で見た。それは常々オレがお前に送りたかった眼差しだっての。 「てめエの顔見てたらよオ、また苦しくなってきちまったじゃねエか…」  アイス食いながら項垂れてる姿を見ていた。らしくもなく落ち込んでいるようで、今の話が本当ならこいつ彩波ちゃんのこと好きになっちゃってない?オレに妬いてんのか。彩波ちゃんのファンに彩波ちゃんの何なんだよって訊かれることはしばしばある。 「もうてめエとはセックスできそうにねエや」  病みつきになるとか言ってたもんな。リピーターってやつ?断じてオレが粗チンだからじゃないよ。彩波ちゃんには及ばないってだけで。やめてよ、こいつの後輩じゃないけどセクハラ~。 「うんうん、オレだってもうごめんだ」  あんな火遊びは。夢旭じゃないやつでイってるところ夢旭に見られたんだぞ。よりにもよって中出しの最中だった。そんなの見られたらもう終わりだね、絶望、成す術なし。大嫌い、二度と関わるな、からの重い一撃は妥当かも。 「会長ちゃんに慰めてもらうとするかア…」 「うんうん、それがいいよ。よく分からないけど」  雲霧はまたオレをじとぉ~っと見上げた。アイス返してほしいのかと思ってアイス返したのに受け取らなかった。オレの食いかけたところ見て、なんか変なカオした。お前だって食いかけ寄越しただろって話で。 「(おい)ちゃんはよオ…セックスできるやつとは口移しも出来んだけどよオ……てめエとは、出来ねエみてエだ」 「喜んでいいのか?」  雨だからかこいつも元気が出ないみたいだ。元気ないやつがアイス食うなよ。残りのアイスも溶ける前に食らう。なんかそわそわして、変だった。それはあれに似ていてた。 「お前もしかして風邪ひいてんじゃない?」  意外と細い肩掴んでオレのほう向かせてからデコに触った。こんなんで測れるわけない。雲霧は嫌がってオレを突き飛ばそうとするけど傘の中に収まってなきゃならないって咄嗟の判断が降って貧相な身体を寄せた。デコにも手を当てた。特に熱いという感想も冷たいという感想もなかった。 「風邪じゃなさそうだな」 「(あち)ぃ…」 「天邪鬼」  でも本当に雲霧は少し赤い顔をしていた。熱出てないだけでマジで風邪でゎ?こいつ。しかも風邪の自覚ないタイプのクソ厄介なやつ。 「家は親居んの?ん?家は親居んの…?あれ?家は親居んの?」  なんか変な響きで言い直してもこの違和感は消えなかった。でも何が変なのか分からない。 「親は家居ねエよ」 「何時頃帰ってくる?」 「ずっと居ねエ。離婚して両方再婚してんだ」 「あ~」  高校生で一人暮らしかよ。親権はどっちなの?どっちかに連絡出来ない?そんなデリカシーのないこと訊けなかった。バカで風邪も分からないようじゃ本人が元気でも風邪ばら撒くだろ、どうせ。こいつの体力にガタがきて肺炎になられるのもな。 「オレの家来る?」  気は乗らないけどオレとはセックス出来ないって言ってるからオレも安心だし。でも妹に手を出さないとは限らないぞ。同性愛者とは一言も聞いてないからな。 「…要らねエ気遣いだ」 「まぁ、無理にとは言わないけどさ~」  でも傘は風邪っぴきが持ってろよって話でオレのじゃないけど又貸しした。 -日風水世-  家事を終えたところでスマートフォンが鳴り、いつの間にか登録されていた苔室から電話が来ていた。天地にスマートフォンを預けた時らしい。もしかすると他の部員たちの連絡先も入っているのかも知れない。 「苔室?」  わたしに電話をしてくる用が思い当たらなかった。 『会長ちゃアん……』  電話ということを差し引いても少し掠れた声だった。 「どうした?」 『会長ちゃアん……』  呑気な声音でわたしを呼ぶ。その後に2回ほど咳が続いた。それを皮切りに乾いた咳が聞こえた。 「大丈夫か?具合が悪い?」 『カラダが(あち)ィ』 「家の人は不在か?」  電話の奥でまた咳が聞こえる。鼻を啜りながら彼は肯定した。 「…電話を繋いでおけ。住所を教えろ。すぐに向かう。ただ時間がかかる」  壁に掛かった時計を見上げる。苔室の家は知らないがわたしとは反対の方角に帰っていくところを見たことがある。 『来なくて、いいぜエ…』  苔室はまた咳をした。誰かと喋りたかっただけだと口にして一方的に電話は切れた。予想どおり天地や山川、榎たちの連絡先も登録されている。部長には部員の連絡網が渡されているはずだ。天地に連絡して事情を話し、苔室の住所を訊いた。教えられたのは高校のすぐ近くにあるアパートだった。今から向かって短くても40分、長くて1時間。近いため選んだ。支度してすぐに出る。何度か苔室に電話をするが出なかった。  住所のアパートのドアノブにはビニール袋が掛かっていた。それを取ってインターホンを鳴らす。返答はなかった。中で倒れてはしないかと無駄だと思いながらノブを捻った。この時ばかりはありがたかったが無用心にも鍵もチェーンも掛かっていなかった。玄関扉を開けて苔室を呼ぶ。 「ぎぎっ、ぐぎっ……!」  錆びて開かないドアのような、かろうじて人の声だと何となく分かるような軋んだ音が聞こえた。 「苔室!」  断りを入れる余裕もなくわたしは(かまち)を上がった。一人暮らしにしては立派なアパートだと思った。2部屋あるらしく短い廊下の奥に小さなキッチンスペースを設けたリビングがありその隣にもう一部屋あった。また金属が軋んだような呻き声が聞こえた。 「苔室、大丈夫か?」  引戸を開ける。ベッドには苔室の他にもう1人髭面の男が乗っていた。 「あがっがっ、!ぐ、ぎっ」  男はわたしたちと同年代には思えなかった。20代後半から30代前半といった頃合いで、苔室の首を絞めながら腰を振る。 「ぁ、ガっ、グぎィッ!」 「よせ!」  体格のいい男の肩に触れる。苔室は揺さぶられながら鼻水や涎を垂らして虚空を見上げていた。男の大きな手が首にある軟骨の隆起を的確に押し込んでいる。苔室が死んでしまう。接触の悪い電気のように頭の中が点滅した。病室と機械がふと脳裏に浮かぶ。苔室も寝たきりになってしまう。一瞬息を止めたような苦しさに襲われた。膝蓋腱反射のように拳が飛んでしまう。尾久山と出会った時のことがほんの一瞬だったというのに駆け巡った。空いた手で止める。 「やるのか?」  男はわたしを見た。苔室の首を絞めていま腕を解き、犯すのをやめた。ベッドから降りようとしたためわたしも後退る。苔室の知り合いらしき男は立ち上がるとわたしの口元に衝撃が走り、視界が急降下した。壁に後頭部を打ち付け、顔と頭を襲った衝撃が熱に変わる。男はまたベッドに戻った。苔室の激しい呼吸にやっと気付く。 「萎えた。フェラしろ、クソガキ」  男が言うと苔室は咳をしながら口淫を始めた。わたしは脳味噌が真下に吸われるような浮遊感を覚え、すぐに立ち上がることが出来なかった。 「姉弟(きょうだい)揃ってヘタクソだな。もっと喉使え。それしか使い道ねぇだろ」 「ォごっ、こ……っぶ、」  校則違反を重ねた髪が鷲掴まれ、男の胡座の中で上下する。 「飲め、便所が」  苔室の頭が男の股間に沈められたまま静止した。 「ぶ……ぐ、く……っ」  口の中が錆び臭かった。弛緩する四肢に鞭打って起き上がる。 「苔室を放せ」 「ああ、いいぜ」  男はあっさりと苔室から離れ、服装を整えると乱暴な仕草で帰っていった。苔室は咳をして鼻を啜る。近くにあったティッシュを当てて鼻を()ませる。 「大丈夫か」 「何しに来たア?」  疲れたらしくわたしの肩口に倒れ込んでくるため受け止める。掠れた声が痛々しい。 「様子をみにきた。これ、掛かってたぞ」  幸い殴られた時にも潰さずに済んだ。パックの苺が透けている。苔室に渡すが突き返されてしまう。 「(おい)ちゃんがイチゴ食えねエって知ってるはずなんだけどなア…」 「誰からだ」  近所の人だろうか。あの男や家族なら中に入れるだろう。 「会長ちゅわんは(おい)ちゃん()どうして知ってんだア?」 「天地から訊いた。勿論渋られたが、事情が事情だったから…悪かったな」 「いいぜエ。これからはいつでも会長ちゅわアんを家に誘えるなア?」  彼は嗄れた声でそう言って咳をした。 「いいや…わたしは…」 「とりまそれは会長ちゅわんが食ってくれよオ」  苔室はビニール袋を顎で差した。そしてベッドに転がる。 「腹は空いてないのか。薬は飲んだのか」 「うるせエ母親(おかん)だな。大袈裟だア」 「家族は?」 「家族は他に家族が居ンだわア。姉ちゃんもたまにしか帰って来ねエから、安心してヤれるぜエ」  彼は仰向けになってわたしに両腕を広げた。複雑な家庭環境にあるらしい。ふざけた生活態度はその影響か、それとも彼個人の性分なのか。 「さっきの男は」 「姉ちゃんのカレシ。姉ちゃん逃げちまったからよオ、(おい)ちゃんが相手シてんだよオ…ンなことどうでもいいからよオ、相手シてくれよオ。(おい)ちゃんイけなかったじゃねエか」 「邪魔して悪かった……とは思わないからな。然るべき機関(ところ)に相談しろ。死んだらどうする?一生治らない障害を負うかも知れないんだぞ」  汗ばみ、他にも汚れていそうな寝巻きを脱がせる。 「会長ちゅわんは大袈裟だア…」 「大袈裟過ぎるくらいが丁度いい」  苔室は乳頭にまでピアスを付けていた。汗で化膿したりしないのだろうか。 「なァ、相手してくれよォ…オナニーできねエんだ」  わたしに掴み掛からんばかりに起き上がると弱った声で彼は言った。 「隣の部屋に居よう。何か作っておく。苺も何かしらに使わせてもらうがアレルギーではないんだろう?」  過激なことでもなければプライベートな事情に口を出すつもりはなかった。 「違エよ、尾久山が浮かんじまってよオ。苦しくなって、性行為(ナニ)もやる気が、無くなんだわア」  寝巻きを剥ぎ取り股間を覆うだけの臀部が大きく開いた下着のみになって項垂れた。知らないのなら教えるのがいいか否か、わたしは迷っていた。

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