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第2話 来訪者
そいつが俺のところにやって来たのは、10日ほど後のことだった。
俺は相も変わらず、ボロい安アパートの3階から、バーボンを片手に窓の外をぼんやり眺めていた。安っぽいネオンが毒々しい色で明滅する。
ここはブロンクス、ニューヨークの場末だ。ハドソン河のあちら側のお上品な連中からは忌み嫌われている『ならず者』の巣窟だ。
つまりは、俺もそんな『ならず者』のひとりだってぇことだが---。
一応、探偵事務所の看板を上げちゃいるが、依頼人なんざほとんど来やしねぇ。なんで食ってるかって---?簡単な話だ。
殺しだ。ここじゃ、この国じゃ珍しいことじゃねぇ。だが、俺は客を選ぶ。女子どもは、勿論、標的(ターゲット)が納得できない仕事は受けねぇ。
依頼人には、始めから釘も差す。
『俺を騙したり、裏切った時にはアンタが標的になるぜ。』
しかし、受けた仕事は完璧に遂行する。それが、俺の、『J』の流儀だ。
そいつは、その「魔窟」に、夜もとっぷりと更けた時間に現れた。
短いノックが、2回。それが三度続いた。
「開いてるぜ。」
静かにドアを開けるそいつを見て、俺は驚いた。淡い栗色の髪にとび色の瞳、高そうなスーツをきっちりと着こなした若い、いかにもお堅い風情の官僚然とした風情は、いかにもこの街には不似合いだった。
「『J』---だな。」
小ぶりだが、形の良い、妙に色めいた唇が呟くように俺の名を呼んだ。
「そうだ---が、あんた、誰だ?」
「サイモン。サイモン-ルーカス。ジャケットを返しに来た。」
あぁ---と俺は得心した。客は手提げから黒いジャケットを取り出して見せた。確かに俺のもの---らしいが、きっちりとアイロンをかけられ、よれよれさ加減は跡形も無い。
「あんた、こんなもんの為にここまで来たのか?」
正直、俺は呆れた。
「ここが、ヤバい街だってこたぁ知ってるだろう。身ぐるみ剥がれて、襲われて、ハドソン河(リバー)に浮かんでも、誰も誉めちゃくれねぇぞ。」
眉をしかめる俺に、そいつは小さく笑った。
「知ってる---。」
「じゃあ、なんで---。」
「仕事を頼みに来た。」
細い、しなやかな指が、後ろ手にドアを閉めた。
規則正しい足音で近寄ってきたそいつから、ジャケットを受け取り、俺はソファーを勧めた。
「コーヒー、飲むか?」
「---貰おうか。」
ドリッパーの埃を払い、冷蔵庫を覗く。有り難いことに一回分だけ残っていた豆をミルに放り込む。
場末の部屋に不似合いな優雅な香りが立ち上る---。
そいつは、埃っぽいソファーを軽く手で払って、腰を降ろした。乱雑な室内をさっ---と眺めて、ポツリ---と言った。
「なんにも無いんだな。」
「生憎と貧乏暮らしでね。探偵なんざ儲からねぇ---。」
それなりにキレイなマグカップを見つけて、コーヒーを七分ばかり注いで手渡した。綺麗な白い指が手に触れて、一瞬、ドキリとした。
そいつは、コーヒーの香りを吸い込み、一口啜って、ふぅ---と小さな息をついた。
「D.C にも探偵は山ほどいるだろうに---。で、何を探すんだ?---女か?--猫なら、その辺に山ほどいるぜ?」
俺の投げやりな台詞に、そいつはくすっ---と笑った。
「探し物じゃない---。」
「あ?」
そいつの目がキラリと光った。懐に入れた手が、一枚の写真を取り出し、俺の前に置いた。
「標的は、この男だ。」
「あんた---。」
俺は、まじまじとそいつの顔を見た。整った細面の顔立ち、いくらか頬が色づいているのは、コーヒーで温まったからだろう。長い睫毛に縁取られた、銀縁の眼鏡の奥の切れ長の2つの眼---何かが俺の郷愁を掻き立てる。あいつに似ている---とふと思った。
そいつもやはり、じっと俺を見ていたことに気付いたのは、ややしばらくしてからだった。
「報酬は、2倍出す。」
俺は息を呑んだ。写真の男には見覚えがあった。それは---
「彼は、ならず者に私を襲わせた。君とのルールを破った。殺る理由は十分だろう。」
そいつは、サイモンは真剣な眼差しに口元に小さく笑みを浮かべて言った。
「君はフリーだろう、『J』。」
俺は言葉を失った。生真面目そうなお役人が、どこから嗅ぎ付けてきたんだ---。俺の顔の僅な変化に気付いたらしく、サイモンは付け加えた。
「私の知り合いには、そういう部署に所属しているのもいてね---。」
CIA ---か。俺は口のなかで呟いた。俺が気紛れに助けた「お嬢さん」はとんでもない代物だったわけだ。
「だが、あんたとは初対面だ。信用できねぇな。」
俺は、ニ本目の煙草に火を点けた。窓の向こうのネオンが、サイモンの眼鏡に反射して揺れていた。
「初対面ではないと思うが---どうすれば、信用してもらえる?『J』。前払いで報酬は支払うが---」
そいつは、懐から小切手を出し、さらさらと何か書き込んで、す---と俺の前に出した。
「金額は好きに書き込んでくれ。スイス銀行だ。足はつかない。」
どこかの漫画じゃあるまいし---。俺は動揺していた。ヤツは、写真の男は、既に殺るつもりだったから、問題はないが---、この白い手を犯罪(血)に染めたくは無い---と何故か思った。
俺は突拍子も無いことを思いついた。どうかしている---と思いながら、いや確かに、どうかしていた。
「報酬は後でいい。」
俺は、ごくり---と唾を呑んだ。
「あんたを抱きたい。---保証金がわりだ。」
強姦(レイプ)されかかった後だ。さすがに断る---断るはずだ、と俺は思っていた。断ってくれ---と。
だが、そいつは、サイモンは、目をしばたたかせ、じっと俺を見つめてから、ふ---と目を伏せて、掠れた声で囁いた。
「---OK 。『J』」
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