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第3話 正気か?
「正気か?」
俺は、そいつは丁寧にジャケットをハンガーに掛ける背中に言葉を投げた。
「求めたのは、君だ。」
ゆっくりとこちらに向き直り、やつは言った。かすかに青ざめて、タイを外す手が震えていた。
いや、だから、そうじゃないだろう---。俺は---あんたが、怒りにかられて、いや恐怖でもいい、俺を罵って、そのタイをポケットに突っ込んで、ジャケットを着て、そこのドアから出ていってくれるのを望んでいるんだ。
「なぁ、あんた、わかってんのか?---」
固まったまま、見つめていた俺に、サイモンは、ひきつった微笑みで呟いた。
「わかってる---。」
おいおい、正気の沙汰じゃないぜ。
俺は干上がった喉から、ようやく言葉を絞り出した。
「あのなぁ---。わかった、わかったよ。ヤツは俺を騙した。だから、俺のルールに従って、ヤツを消す。だから、あんたは---」
言いかけて、俺は再び固まった。そいつの目が真っ直ぐに俺を見つめていた。銀縁の眼鏡越しの真剣な眼差しが、俺に突き刺さった。
形の良い唇が俺に呪いをかけた。
「君の信用が欲しい。」
どうかしてる、どうかしてるぜ、あんた---。あんたは、こんな所に来ちゃいけないし、ましてや俺なんぞの誘いに乗るなんてのは、もっての他だ。
頼むから、正気に返ってくれ。そして、早く、そのドアから---。
俺は、そう言いたかった。言わなきゃいけなかった。
けれど、眼鏡を外して、恥ずかしそうに俯いて、シャツのボタンを外し始めるその手を止められなかった。
----いや、どうかしていたのは、俺のほうだったかもしれない。
気がついたら、俺はそいつにキスしていた。そいつは長い睫毛をしばたたかせて、一瞬、ビックリしたように俺を見上げたが、すぐに目を閉じた。乙女みたいなその仕草に、いや乙女そのものの羞じらいってヤツに、俺の理性はすっ飛んじまった。
いかにも慣れていなさそうに、不器用に応えてくる愛らしい唇は、そんじょそこらの女のそれより、はるかに甘かった。俺は我れを忘れて、その甘さを貪っちまった。
ややしばらくして、そいつが流石に苦しそうなのに気づいて俺はやっと唇を離した。
「悪かった---。」
ばつが悪くて、口ごもる俺に、そいつは表情も変えずに言った。
「君のキスは煙草(シガー)の味がする。」
俺は、少しむっとした。が、そいつは、平然と続けた。
「私は---嫌いじゃない。」
おい頼むから、もう焚き付けないでくれ---。あんたは、帰らなきゃいけない。今すぐに、そのドアから出ていかなきゃいけない---。あんたは---似すぎてる。アイツに---、俺を捉えて離さない、あの面影にそっくりの笑顔で微笑まないでくれ---。
戸惑い、混乱する俺に、そいつは、必殺の一撃を食らわした。
「シャワーは? ---浴びてからのほうがいいだろう?」
Oh my God ! --- 柄にもなく祈った。が、神には俺の言葉は届かなかった。
俺は、あっさり悪魔の囁きに負けた。
「そこの右だ---。」
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