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第2話
右の窓から見える景色が見慣れないものに映る。レイは車に詳しくないのでわからなかったが一目で高級車だということがわかった。ボルドーの落ち着いた雰囲気が高浜によく似合っている。
店に出勤した時と同じシンプルな白のシャツとジーンズでレイは何も持たずに出てきた。単なるドライブに付き合わされるだけですぐに帰されるだろうと思ったからだ。
「窓、開ける?」
「……いえ」
車中に流れているジャズの音色が心地よくて邪魔をしたくなかった。レイはピアノの音が好きだった。少し神経質そうな演奏が高浜によく似合っている。
「なぜ、真優子さんは俺に君を預けたんだろうね」
「…………」
真優子の真意が計りかねる。昨夜高浜のことで眠れなかったのは真優子が一番よくわかっているだろうに。確かに真優子と自分は恋人同士ではない。レイがただ居候させてもらっているだけの関係だ。だがそれを高浜に知られるのは何となく癪な気分になった。
「……あなたが男性だからじゃないですか?」
「君の容姿で、それは通用しないだろう?」
レイはひやりとした。まさか。高浜はそういう意味でレイを誘ったのか? 真優子はそれを知っていて高浜に自分を預けたのか? 一瞬にして頭の中が真っ白になる。
「もっと、怖くなった?」
レイは窓の外に集中しようと目を凝らした。だが遠くの明かりはぼやけて、かえってレイの心を不安にさせた。
「…………!」
いきなり車が止まり高浜の大きな手がレイの長めの前髪に触れる。驚いてレイは目を見開いた。高浜の余裕のある目が笑っている。
「何か、ついてる」
「ウソ」
レイはゆっくりとその手に自分の指を掛けた。視線が外せない。外したほうが負けだ。そう思った。いや自分が外したら負けだと思った。
「ホントだよ」
「……ウソ」
髪から退けようとすると高浜はその手をレイの胸へと当てた。自分でもわかるくらい鼓動が激しく鳴っている。それを感じたのか高浜はレイを見つめたままもっと手を強く当てた。
「こんなになってるのに、それでもまだ、そんな顔をするの?」
そんな顔。無表情。誰もがそう言った。感情が顔に出ない。それは幼い時からのものでレイは不思議なことだと思ったことがない。だが人から見れば奇妙なものであるらしいことはわかった。
「ウソをついてまで、僕に触れたいんですか」
高浜は笑った。含みのある笑みだった。それがちくりとレイの胸に刺さる。
「君なんて、押さえ込むことは簡単なんだよ」
「じゃ、そうすればいいじゃないですか」
「君は、とても面白い」
「興味本位で人に近付くのはやめたほうがいいですよ」
「……そういう性格なもんでね」
レイは胸から高浜の手を外そうとしたがその前にその手が離れて肩へと触れる。そのままぐっと強く引かれて唇を重ねられていた。レイは反射的に後ろへ引こうとしたが今度は両手で肩を掴まれてしまった。激しすぎる口付け。顔を背けようとすると今度は片手で身体を抱き込まれてもう片方の手で頭をしっかりと押さえ込まれてしまった。苦しい。思わず息を継ごうとすると高浜の冷たい舌が忍び込んできてレイはその感触に思わず震えた。その冷たさは今の高浜の行為と裏腹にその心を表しているかのようでレイは強くそれを拒絶した。
「……めて!」
両手で高浜の胸を突き放すとレイは思わず平手で高浜の頬を張った。少し驚いたように高浜がレイを見る。情けないほどに震えている。レイは車を降りようと高浜に背を向けた。
「ロックしてあるから、降りられないよ」
「……降ろしてください」
「怒っているのか」
レイは考えた。怒っているのか。怖いのか。辛いのか。泣きたいのか。そのどれもが本当で本当ではないような気がする。自分の感情がわからずレイは混乱していた。こんなことは初めてだった。いつもどうでもよかったのに。何だってよかったのに。レイにとって何もかもが他人事だったのに。自分の身に起きることさえ。
「……わかりません」
レイは窓の外を見つめながら小さく答えた。高浜のことが更にわからなくなっていた。わからなくて当然なのに。知らないことがレイに微かな虚脱感を与えていた。
「わからないのなら、俺に任せれば」
「それは嫌です」
「なぜ」
レイは背後の高浜に何と言えばいいかわからずまた黙り込んだ。そっと指が絡んで両手首を掴まれる。冷たい手。レイの心はまた冷える。こんなふうに冷めたように求められることは今までなかった。別に熱情を持って接してほしいわけではない。鬱陶しいことはあっても。だが高浜にそうされるとなぜ自分は淋しく思うのだろう。レイは自己嫌悪に陥っていた。うなだれた項に高浜の冷たい唇が這う。レイは泣きそうになりながら目を強く閉じた。
「……いつもこうして、我慢しているの?」
わかっていて。これ以上軽蔑させないでほしい。もうこれ以上この男と関わるのは嫌だった。
「……やめて」
「やめなかったら?」
「……殺しますよ」
高浜は唇を離した。
「殺す?」
面白そうな響きを含んでそれは聞こえた。レイは自分の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。ただふと零れた言葉がそれだった。殺す。これではまるで告白しているようなものだった。何を? 思いが錯綜してレイは更にうなだれた。
「もっと君が知りたいだけだ」
「知って、どうするんですか」
「どうしてほしいんだい?」
レイはなぜか頬が熱くなるのを感じた。苦しげに息を吐き出して顔を上げた。
「誰も、これ以上、僕の中に踏み入ることは許さない」
「へぇ」
高浜は更に笑いながらレイの耳へと唇を這わせた。
「ここまで立ち入ったのは、俺が初めてなんだ」
高浜には敵わない。ほんの少しのレイの言葉の隙間からぐいぐい心の中に入り込んでくる。それも土足のまま。ひび割れそうに響く胸の鼓動が痛い。レイは目を開いて窓の外を見つめた。いつの間にか高浜に背中から抱き締められている。ふわりと高浜から深みのある香りが漂ってくる。香水をつけていたのか。ここまで近付かないとわからなかった。
「俺の部屋に来ないか」
「嫌です」
「そういうことには素早く反応するんだな」
「もうあなたの言葉は聞きたくない」
「最大限、君を尊重して、尋ねたつもりだったんだが」
レイはまた嫌な気分になる。このまま連れていかれてもレイは逆らわないと思っている高浜が嫌だ。この場でもいいのだと言外に匂わせている、そういう部分も。首に長い指が絡みつく。そしてゆっくりとシャツのボタンに掛かるのをレイは冷めきった気持ちで感じていた。
「…………?」
ふと胸元に視線を落とす。後ろから両手が伸びていて外していた二つ目のボタンを器用に嵌めているところだった。レイは拍子抜けしてそれを眺めていた。
「俺は、男にこんなことをする趣味を持ち合わせていない」
「…………」
振り返ると高浜は奇妙に優しげな表情でレイを見つめてきた。
「なんてな。気が変わった」
「……高浜さん」
「君はいくつになる?」
レイは少し考えて、それから本当のことを言った。
「……十七」
「……そうか」
高浜は何か言いたげだったがすぐに元の表情に戻りハンドルを握った。
「まだ、夕飯、食ってないだろ?」
「……ええ」
「俺もだ。付き合ってくれ。そうしたら、すぐに店まで送る」
「……はい」
車は滑らかに走り出した。レイは前を見つめたまま高浜の横顔を見ることはなかった。
「ごちそうさまでした」
「また、誘ってもいいかい」
「嫌です」
高浜は苦笑した。
「嫌なら、嫌って、顔に出せばいい」
レイは黙って車を降りようとした。すると片手を掴まれた。振り返るとふいに唇を奪われる。今度は軽くすぐにそれは離れた。ほんの少しだけ温かかったのは気のせいだろうか。
「……その香水」
「え?」
「……似合います。高浜さんに」
「そう」
高浜は少し笑った。
「何か、知りたい?」
「いえ、別に」
レイは目でロックを外すように促した。だがなかなか高浜はそれをしてくれなかった。
「店まで送る」
「いいえ」
「それなら帰さない」
レイは少し考えて頷いた。ここで変に意地を張って話を拗らせても仕方がない。店までなら構わないとレイは思った。
車から出た二人はビルの四階にある真優子の店へと向かった。エレベーターが開くとレイは小さく声を上げた。
「……店が閉まってる……」
「まだ時間じゃないな」
高浜は腕時計に目を落とす。重厚な木の扉に「closed」の文字が刻まれた薔薇のプレートが掛けられている。真優子はレイの荷物に気付いただろうか。中に携帯や一緒に住んでいる部屋の鍵や財布などが入っている。これでは連絡も帰ることもできない。
少しだけ出掛けてこいと言ったのは真優子だ。それとも高浜がレイを帰すつもりがないとでも思ったのだろうか。レイは困って俯いた。高浜が苦笑した。
「真優子さんらしくないな」
「…………?」
「行こうか。ここにいても仕方ない」
断る理由もなくレイは高浜に続いてエレベーターにまた乗り込んだ。
「さて。どうする」
どうするも何も、とレイは思った。真優子の部屋に帰ると言おうとして、なぜか後ろめたい気分になって即答ができなかった。
「俺に部屋を教えるのも嫌だろう。どこか近くまで送ろう」
レイは少しほっとして、そうしてもらうことにした。高浜が自分の部屋に来いと言いはしないかとひやひやしていたが取り越し苦労だったようだ。自惚れ過ぎだとレイは自分を叱った。
「ここでいいです。……ありがとうございました」
「しばらくここで待っている。もし、部屋に入れなかったら、降りてきて」
「…………」
もし部屋に真優子がいなかったら。それを考えると怖かった。真優子はどうしてこんなに早く店を閉めていなくなってしまったのだろう。レイを置いて。真優子の気持ちがわからない。いや真優子だけではなくて誰の気持ちもわからないといったほうが正しいとレイは思った。わからないのではなくてわかろうとしなかった。わかる必要はないと思っていた。誰が何を思おうと自分には関係ないと。自分がどうなろうとよかったのだから。例えば死ぬことになろうとも。
「……レイ?」
レイはふと顔を上げる。呼び捨てにされたことも気付かず、レイは小さく頷いてドアを開けて歩き出した。早く真優子に会いたい。いや会うのが怖い。そんな相反する感情を持て余しながらレイは部屋へと向かった。
部屋の前に立ち、レイはしばらく何のアクションも起こせなかった。もしいなかったら。もしいたら。どちらにしても自分はどうしていいかわからずにいた。だが下で高浜が待っていると言ったことを思い出して思い切ってドアの取っ手に指を掛ける。
すんなりとドアは開いた。少しだけ覗いてみると中は暗かった。真優子は帰って来ているに違いない。だが何て無防備な。鍵も掛けずに。起きているのだろうか。眠っているのだろうか。なぜ鍵が開いているのだろうか? 自分のため? いずれにしてもこんな危ないことをしては困ると思い、レイはそっと壁伝いに部屋へと入っていった。目が慣れてくるとリビングのソファの上にレイの鞄が置いてあるのが見えた。一度帰ってきているようだ。それでは真優子は眠っているのだろうか。寝室へのドアを一瞬迷ったが少し開けてみる。ベッドの上の片方が滑らかに膨らんでいてレイはほっとした。しかしレイのために開けておいてくれたのだろうか。悪いことをしたと思いながらドアを閉める。それから少し考えて自分の鞄の中から鍵を取り出すと玄関へと向かった。そっと外へ出て鍵を閉める。それから急いで高浜のもとへ向かった。車の中の高浜は少し背もたれを倒して目を閉じていた。疲れているのだろうか。腕組みをしたまままるで眠っているようだった。しかしレイが近付くと音が聞こえるはずもないのにすぐに目を開いた。窓が静かに開く。
「どうした。真優子さんはいなかったのか?」
「いえ、……眠ってました」
「わざわざ来なくてもいいのに」
レイは黙り込んだ。そうだ。別にわざわざ来ることはなかったのだ。高浜が待っているのは自由だ。だが、つい、ここまで何も考えずに来てしまっていた。
「……ありがとう」
レイは驚いて一瞬目を見開いた。高浜には似合わない、一番遠い言葉だと思っていた。高浜がまた意地悪そうな笑みを浮かべた。
「そうやって、年相応の顔をしたほうがかわいいよ。レイ」
レイ。そう呼ばれた。簡単に。レイは思わず呼び捨てはやめろと言おうとしたが言えなかった。あまりにも甘い響きの余韻がそれを止めた。レイは俯いた。
「おやすみ。レイ」
返事を聞かず、いやレイが言葉を発するとは思わなかったのか高浜は窓を閉めるとすぐに車を出した。レイはぼんやりと冬の冷たい風を全身に感じながら車が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
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