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第3話
真優子の部屋に戻りレイは明かりを点けずしばらくソファに座り込んだままぼんやりしていた。疲れた。だが気分が昂っていてとても眠れそうになかった。高浜の唇の感触が、香りが、纏わりついているかのように離れない。完全に振り回されている。おまえは子供だからな、とよく言われた。だからすぐに騙される。もう少し世渡り上手にならないとおまえのような容姿じゃ辛いぞ、とも。けれど何とか生きてこられたのは皮肉なことにこの容姿のおかげとも言える。
レイはソファに身体を沈めた。爪を噛みながら目を閉じる。高浜悟。あの男が。ずっと探し求めていた男。会えないと思っていた。決して会えないと。だがこんなに早く巡り会った。この出会いが何を意味するのか、これからどうなっていくのか、それともこれで終わるのか。何もかもがわからないままレイは静かに眠りの中に落ちていった。
真優子の足だとすぐにわかる。こんなに長く一緒に過ごした女性は真優子が初めてだったから見間違うはずがない。いつも真優子はレースのネグリジェを身に着けて眠っている。それは深紅であったり漆黒であったり純白であったり様々だった。だが真優子によく似合っていてレイはその姿が店にいる時よりも好きだった。だからといってその姿に欲情するわけではなかったが。レイは多分そういう感覚に疎いのだ。求められれば嫌でも反応はするが自分から仕掛けたことは一度もない。いつもされるがままにぼんやりと天井を見つめていることが多かった。誰と寝たかなどということはもう忘れてしまった、というより記憶にない。ただ多くの男や女と寝たことは確かだ。レイにとって自分の身体は自分のものであって自分のものでないような感覚だった。だから何をされても構わなかった。今まで生きてこられたことは奇跡のようなことかもしれないと思うことがある。それが高浜悟に会うための積み重ねだったのだとしたら、それも悪くないとレイは思う。そのうち真優子はレイの前に跪いて顔を近付けてきた。声を出そうとしても声が出ない。ただ遠い意識の中で温かな柔らかい唇が自分の唇に触れた感触だけが残った。自分を見ている真優子の顔は暗かった。何かを思いつめているかのような。レイの意識はその途中で途切れた。後は何も覚えていなかった。
「……真優子さん……?」
コーヒーのいい香りが辺りに漂っている。リビングに掛けられているシルバーの丸時計はもう十一時を回っていた。ゆっくりとだるい身体を起こすと柔らかなシルクケットが腰まで落ちた。真優子が掛けてくれたのだ。リビングに繋がるキッチンを覗くと真優子がこちらに背を向けて頬杖をついてぼんやりとしていた。白いガウンを身に着けて広がるロゼブラウンの巻き髪が陽の光を受けて輝いている。
「……真優子さん」
驚かせないように小さな声を掛ける。すると真優子はこちらを向いた。
「おはよう、レイ」
「……おはよう」
「何でソファなんかにいたの? 風邪ひくじゃない」
ずっと考え事をしているのをまた気付かれたくなかったからとは言えなかった。高浜を感じさせるような言動はしないほうがいいと思った。
「ごめんなさい、つい……」
真優子はレイのカップを取ってコーヒーを入れ始めた。レイは一呼吸置いて真優子の前へと歩き座る。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう」
そのまま口を付けようとすると真優子が眉を寄せた。
「こら。ミルクくらい、入れなさい」
「あ、……うん」
ミルクを入れながらレイは何となく真優子の視線がいつもと違うような気がしてならなかった。それは思い違い? それとも後ろめたいから? レイは息が詰まるような感じで小さく咳をした。
「ほら。風邪」
「ううん……違う」
「じゃ、何」
「…………」
レイは思わず視線を泳がせた。真優子の視線がレイの胸元へと降りてくる。高浜の指の感触が重なり喉が引きつる感じがした。
「もう、何か上に羽織るものを持ち歩いたほうがいいわよ」
「うん……そうだね」
「夜は寒いから」
「うん……」
どちらが切り出すか。それとも無かったことにするか。レイはこういう駆け引きめいた感じがとても苦手だった。どうして昨夜あんなに早く店を閉めてしまったのか、理由を聞こうとする前に真優子が言葉を滑り込ませた。
「……昨夜は、どこへ行ったの?」
レイは少し考えた。真優子はレイが帰ってきたことを知っている。なぜかそう思ったからだ。
「夕飯に付き合っただけ」
「そうなの」
真優子が視線を落とした。
「……それだけ?」
「……それだけって?」
「言いたくないことでも、ある?」
「…………」
言いたいことは何もない。そう先手を打たれてしまうと正直に言えなくなってしまう。聞きたくないのか。それとも探りを入れているのか。レイはカップを置いて両手を組んだ。
「……真優子さん、何で、僕のことを高浜さんに任せたの」
真優子はレイのはっきりとしたその物言いに少し驚いたように目を開いた。それから気まずくなったのかレイと同じように手元へと視線を落とした。
「僕は、あの人が苦手だって。そう、言った次の日だよね」
「それならなぜ、嫌だって言わなかったの」
レイは思わず言葉に詰まる。
「本当に嫌だったら、どんなことをしても断るはずだわ」
真優子は試したのか。確かにそうだ。真優子に言われたから、そう言えばそうなのだが、嫌なら真優子は無理強いをするような人間ではないことをレイが一番よく知っている。それほど自分は取り乱していたということか。それを一番見抜いていたのは真優子だったということか。レイは小さく息を吐いた。
「やめましょう。ごめんなさい。私が悪かったわ」
「真優子さん」
「……あなたがあんなふうに、感情を人に見せる人だとは思わなかったから」
「そんなに……あからさま、だった?」
「……ほんの少し、ね」
真優子は紅い爪先を指で撫でた。何かを惜しんでいるかのような微笑にレイは尋ねた。
「……高浜さんは、真優子さんが好きなのかと思った」
「言ったでしょ。彼は、誰にも興味がないって。……いえ、今は、あなた以外は、かしら。彼はただの一度も、私を誘ったことなどないわ」
「……急に、僕を気にし始めたのは、おかしいよ。だって、今まで、ずっと店に来てるのに」
真優子はほんの少し上目使いにレイを見た。
「あなた、そういうことに、本当に鈍感なのね。彼は、ずっと前からあなたを見てたわ。……初めて、あなたが店に顔を出した時から」
レイは息を飲んだ。顔を上げて真優子の伏し目がちの表情を見た。高浜が。気付かなかった。意味深な視線ならすぐに気付くはず。今まで気付かなかったことはない。気付いていて、ただ知らないフリをしていることはあっても。高浜がどんな視線を投げていたのか知りたかったがこれ以上は聞きかねた。それに気付いたように真優子は続ける。
「私にもわからない、不思議そうな目で、あなたを見てた。そういう色眼鏡で見ているのではなくて、とても懐かしい人を見るような、そんな目で。……とても優しい目だったわ。私、あんな高浜さんを見たことがない」
「……真優子さん」
「でも、自分から話し掛けることは絶対にしなかった。今までは。あなたが彼の名前に反応するまでは」
レイは思わずその言葉を口に出していた。
「……真優子さん、もしかしたら……高浜さんのこと……」
真優子は少し驚いたような顔をしてレイを見た。そしておかしそうにくぐもった笑いを漏らした。
「あなた……本当に、鈍感なのね……。これだけ一緒に暮らして……あなた、高浜さんと本当に似てる。誰にも興味がないのね」
真優子は手を伸ばしてレイの手の上に重ねた。
「レイ、私はあなたのことを何も知らない。レイという名前だって私が付けてあげたもの。でも、それでもいいの。私、あなたがそばにいてくれれば。……あなたは淋しい私のそばにいてくれた。それだけでいいの。でも、あなたが高浜さんに魅かれていくのを見ているのが辛いのよ」
レイは一瞬混乱して真優子を見た。
「……真優子さん?」
「バカみたいだと思っていいのよ。こんな年上のおばさんにこんなこと言われても、あなたが困るってわかってる。でも、私、あなたのことが気になるの。……高浜さんにさらわれないで」
レイは目を見開いて真剣なまなざしの真優子を見つめた。昨夜の口付け。唇の温かさ。あれは現実だったのか。それでは自分を高浜に任せたのは。
「……試したの」
「そうよ……レイ」
レイは静かに目を伏せた。正直、想いを寄せられることは辛い。今まで真優子のように真摯にレイを想ってくれた人がいないこともなかった。だが何も心に響いてこなかった。空ろだった。だから言われるままに振舞った。だがそんなことは誰も望んでいないのはわかっていた。真剣に想ってくれる人ほど離れていくのは早かった。レイはそれで構わなかった。罪悪感が大きくなっていくのを止められなかったから。むしろ身体目当てでぞんざいに扱われて傷つくほうが楽だった。何も考えずに済んだ。痛みが生きる煩わしさを紛らわせてくれた。真優子の想いは辛い。重い。初めて一緒にいて落ち着くことができた人だから。涙が零れそうになってこめかみが痛んだが、ただそれだけだった。泣いたことがないからその感覚がわからない。
「……真優子さん、僕は……」
真優子は息を詰めてレイの言葉を待った。だが言葉が出て来ない。レイは喉に手を当てた。声が出ない。辛い。
「……僕は……あの人を……」
先が続けられない。何とも思っていない、そう言えばいいだけのことなのに。ウソがつけない。言えない。ずっと思い続けてきたなどと言いたくはない。真優子には特に知られたくなかった。なぜ彼を思い続けてきたか。それを言ったらすべてが終わる。まだ終わらせるわけにはいかなかった。
「……すごく、苦手だ」
「……そう」
真優子は重ねた手を引いて少し淋しそうに笑った。レイは俯いたままコーヒーカップを両手で握り締めた。
「……いいのよ。あなたは、あなたの思うようにすればいいわ」
決してどうでもいいという言い方ではなく思いやりを込めてレイには聞こえた。真優子はそれ以上何も言わず席を立って寝室へと消えていった。レイはどうしても出て来ない言葉をまだ待ち続けてずっと喉に手を当てたままでいた。
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