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第4話

 店を休んでもいいと言われている日でよかったとレイは思った。真優子と一緒にいるのも辛い。もし高浜が来ても怖い。レイはぼんやりと西新宿のオープンカフェに一人で来ていた。風に吹かれて前髪が揺れる。長すぎる。切らないと、そう思いながらついそのままにしている。顔が隠れてちょうどいい。そんなこともあって。足を組んでぼんやりと眺める。行き交う人達は誰もみな忙しそうだ。自分だけ取り残されていくような気がする。ふと腕時計を見ると四時を回ったところだった。真優子はそろそろ部屋を出る頃だろうか。レイはため息をついた。朝の会話を思い出して。  真優子の部屋を出たほうがいい。そう思った。やはり自分の容姿は人を惑わせるものであるらしい。こんなにも心は空っぽなのに。真優子が容姿で自分を拾ったとは思えなかったが、今朝のような雰囲気になってしまうならレイには苦しかった。ほんの少しうなだれて顔を上げようとするとふいに頭上から声が降ってきた。 「……レイ?」  逆光でわからなかったがその声ですぐに高浜だとわかった。レイは眩しそうに手をかざしてまた顔を下げる。嫌な相手に会ってしまった。 「一緒にいいかい?」  断る理由もなくレイは黙ったままでいた。それを肯定と取って高浜はレイの斜め横に置かれた席に座った。横顔を見て少し驚いた。銀のフレームのシャープな眼鏡をした横顔はとても魅力的に見える。レイは眼鏡を掛けて知的に見える人が好きだった。もともと高浜はそのような雰囲気を持ち合わせていたが眼鏡を掛けると一層その印象が強まった。ダークグレーのスーツがよく似合っている。店に来る姿とはまた違う昼の顔だ。ここは高層ビルの谷間にある店なので高浜はこの辺りで働いているのだろうか。ブリーフケースをレイの真向かいの席に無造作に置くとウェイターにエスプレッソを頼んだ。 「今日は休みか」  レイは小さく頷いた。高浜のまっすぐな視線を遮るように俯く。 「俺のことで、トラブルになったか」  レイはテーブルの足に視線を落としたまま何の反応もしなかった。できなかった。どうしていいかわからなかった。  高浜が小さなため息を漏らし、ネクタイを緩める気配がした。 「……帰れるか?」  どこに? レイは顔を上げた。眼鏡を外して高浜はテーブルに置く。 「どこに行けばいいか、わからないような顔をしているから」  その通りだ。どんな顔をして真優子に会えばいいのかわからない。今も真優子から逃げるようにしてここにいる。寝室にいても眠っている気配がしなかったのだ。息を潜めてレイが何をするか耳をそばだてて聞いているような気がした。そして息が詰まるような気がして部屋を飛び出してきたのだ。何も無かったかのように一緒に暮らすことはもうできない。  ウェイターが小さなカップを高浜の前に置いて一礼して去っていく。 「……引き延ばせば引き延ばすほど帰れなくなる。元に戻れなくなるぞ」  元に戻る。そもそも何もないのに元に戻る意味があるのか。帰ってもレイは真優子の要求に応えることができない。いっそのこと身体を見返りに要求されたほうがよかった。こんなによくしてもらったのにレイは何ひとつ返すことができない。真優子の唯一の願いさえ聞くことができない。 ──……高浜さんにさらわれないで。  わかっている。もちろんさらわれる気などさらさらない。ただ……。レイは目を閉じた。確かめたい。高浜を試したい。憎しみに近い想いで。  もしかしてと思う。高浜が現れさえしなければレイは真優子の想いに応えられたかもしれない。初めて人間としての当たり前の感情に気付けたかもしれない。それなのに。八つ当たりだとわかってはいるがこんな時に高浜が現れたことを恨めしく思った。あんなにも会いたいと願っていたのに。勝手なものだとレイは自嘲した。これも宿命か。それならばレイは今までのように生きるほかなかった。 「……レイ」  レイはふと顔を上げた。風の流れが変わった。 「……あの香水」 「え?」 「つけてないんですか」 「ああ」  高浜はカップに口を付けた。その唇を凝視する。あの夜レイに触れた冷たい唇。その唇が何人の肌の上を滑ってきたのか。レイは想像するだけで悪寒がした。 「夜しかつけないんだ」 「……そうですか」 「気に入ったみたいだな」 「……ええ、……まぁ」 「じゃ、俺の部屋に来る?」  高浜は意味深に微笑んだ。  気持ちが悪い。吐き気がする。この男は欲望のままに生きている。抑えつけていた怒りが爆発してしまいそうでレイは唇を噛んだ。 「……レイ?」  ダメだ。これ以上正気でいられない。どうして。どうしてこんなことになった? どうして自分は今ここにいる? どうして隣にいるはずのない高浜がいる? 壊れていたはずの感情が形を成していくのをレイは静かに感じていた。冷たい汗が流れるのを感じる。手足の先が冷たくなる。目が回る。死んでしまえばよかった。あの時に。死んでしまえばよかったのに。どうして自分は……。 「……レイ!」  その瞬間意識が途切れてレイは俯いたまま高浜の膝に頭から倒れ込んだ。 「……気付いたか?」  辺りを見回すと暗くてレイは自分が置かれた状況がよくわからなかった。高浜に覗き込まれてレイは起き上がろうとしたが勢いが良過ぎてまた眩暈がした。身体の力が抜けてまた倒れ込む。目を強く閉じて吐き気を堪えた。 「……僕……は……」  声が掠れている。高浜はレイの額の汗を拭った。 「倒れたのを、覚えてないのか?」 「……倒れた……?」 「ああ、いきなり」 「……ここは……」 「俺の車だ」  少しずつ目に夜景がなじむ。先ほどいたカフェのすぐそばに停まっているということが何となくわかった。倒されたシートの窓から見える高層ビルに圧倒される。レイは目を瞑って大きく息を吐いた。 「こういうことがしょっちゅうあるのか?」 「……いえ……」  原因はわかっていたがそれを言う気にはならなかった。とにかく感情が制御できなくなるほど昂ると意識が無くなる。気をつけなくては。レイはゆっくりと起き上がった。高浜の少し心配そうな顔がおかしかった。この男でも人を心配などすることがあるのか。 「…………」  ペットボトルを手渡される。冷たい。レイは額にそれを当てた。わざわざ買ってきてくれたのだろうか。 「……ありがとうございます……」  すぐに開けて半分ほど飲んでしまった。かなり喉が渇いていた。すっかり身体の汗は引いていて、今は窓の外から入ってくる風が心地よかった。高浜がCDのスイッチに手を伸ばしてそれを押した。あの夜聴いたジャズが流れてきてレイはミネラルウォーターを飲む手を止めた。 「……それ……」 「ジャズが好きなのか?」 「いえ……」 「そうか」  もっと詳しく聞いてみたい気もしたがそれはやめた。ぼんやりと窓の外を眺める。時間を忘れてこんな時間がずっと続けばいいのに、そんなことを思った。無理なことだと知っていながら。レイはボトルの栓を閉めた。 「店にするか? 部屋にするか?」  そう問われてレイは少し悩んで答えた。 「……今夜、泊めてもらえませんか?」  高浜が少し驚いたようにレイを見た。その瞬間レイの心の中に踊るものがあった。これは何だろう。考える間もなく高浜は車を出していた。答えが変わる隙を与えないかのように。  レイは黒を基調にしたリビングに通された。生活感がない。あまりにも。 「業者に頼んで掃除をしてもらってる。出張が多くて。あまり人を中に入れたくないんだが」  そうだろうとレイは思った。仕方なく頼んでいるのだろう。薄暗い照明。部屋の中にはほんの少しだけあの香水の香りが漂っていた。背広を脱いでネクタイを放ると高浜はぼんやりと立っているレイを見た。 「座って。何か……そうか、君はまだ未成年だったな」 「お酒なら、何でも飲めますよ」  高浜はほんの少し笑うとキッチンへと歩いた。レイは黒皮のソファの端に座ると手にしていたトレンチコートを隣に置いて高浜の姿を目で追った。高浜は慣れた手つきで何かを用意していた。 「……手伝いましょうか」 「……冷蔵庫の中から、食べたいものを何でも取ってくれ」  すぐに高浜は琥珀色の液体が入ったグラスとコリンズグラスを持ってきた。中身は何だろうとレイは思った。透明な色をしている。 「ああ、ミネラルウォーターだ。オレンジジュースは置いてないぞ」 「…………」 「まぁ、それより、何でも好きなものを食べろよ」  レイは言われた通りにキッチンに置かれた大きな冷蔵庫を開けた。いろいろな惣菜があったがレイは考えず適当にいくつか取り出した。何も作ることはしないらしい。高級デパートの名前が印刷されているのを見て高浜はいったい何の職業に就いているのだろうと思った。このマンションも都心から離れているとはいえ決して安い場所ではない。調度品も少ないが良いものをそろえている。レイはビニールを剥がしながらふと洗い場の隣に置かれている白い紙袋に視線を移した。 ──薬?  レイは高浜をちらりと見た。高浜はすでにグラスに口をつけてくつろいでいる。中の薬が何なのか知りたかったが薬を抜くわけにもいかない。どうするか考えながらビニールを捨てようとゴミ袋を開けるとそこにちょうど飲み終わった薬のシートが何枚か捨てられていた。レイはそれをジーンズのポケットに押し込むとカトラリー立てからフォークを二本引き抜き惣菜を纏めて手にして高浜の前に置いた。 「悪いな」 「……いえ」  薬を飲むような身体には見えないが。レイは高浜を見た。長身の鍛え上げた身体からは想像の仕様が無かった。  レイはグラスに口を付け少しだけ水を飲む。まだ喉が渇いていた。今夜することはもう決まっている。さてどうするか。仕掛けるか。そんなことを考えながらレイは自分をおかしく思う。自分は狂っている。そうあの時から。死ぬことができなかったあの日から。死ねなかったのは今日という日のためなのか。それとも他に何か意味があるのか。そもそも自分はなぜあれ以来死のうとしなかったのか。死にたければどんなことをしても死ねたはずだ。それをしなかったのはやはり、とレイは思う。この男に会いたかったからなのか。 「……そんなに俺の顔に興味があるのか」  レイはすぐに視線を落とした。 「……いえ」 「何を考えている?」 「……わかりません」  高浜は笑った。 「本当に感情がない人間も、いることはいるだろうな」 「…………」 「だが今まで俺は会ったことがない」  高浜が立ち上がる。レイは思わず身体がすくんだ。 「何もしやしないよ。酒を持ってくるだけだ」  高浜はウイスキーのボトルとミネラルウォーターのボトルを持ってきてガラステーブルの上に置いた。情けない。自分から誘っておいて。レイは身体を固くしたままグラスを握り締めた。 「俺は遅くまで起きてるから、眠くなったら先に寝てろよ。風呂場はここを出て左側。寝室は俺の後ろ」  レイは拍子抜けして高浜を見た。酒を飲むピッチが異常に早い。レイがまだグラス半分しか飲んでいないのに高浜はもう四杯目に入ろうとしていた。レイは思わずボトルに手を伸ばした高浜の手に自分の手を重ねた。視線が合ってレイは少し胸が弾むのを感じた。 「……早すぎます。店では、そんな飲み方はしないのに……」 「心配してくれるのか」 「……身体を……壊します……」  思ってもいなかった言葉が出てきて何となく居心地が悪い。するとその瞬間レイのトレンチコートのポケットの中にある携帯が鳴り出した。静かな部屋に「G線上のアリア」がゆったりと流れていく。この電話に掛けてくるのは一人だけ。レイを見つめたまま高浜が立ち上がる。その視線に縛られたようにレイは動けなくなった。鳴り続ける。だが動けない。高浜がコートを取り上げると中から携帯を取り出した。何をするのか。レイは高浜を見上げたまま黙っていた。長い指がとん、と画面を押す。 「……高浜さ……!」  高浜がレイに携帯を差し出した。グラスを置いてそれを震える両手で受け取る。画面を見ると真っ暗になっている。電源を落としたのか。レイは高浜を見上げた。 「出ても出なくても、君が俺といることを真優子さんは知っている」  レイは手の中の携帯に視線を落とした。その通りだ。何を言おうとしたのだろう。電話に出るなと? それとも電話を切るなと? バカげている。レイは携帯をコートの上に置いた。すると高浜がコートと携帯を床に落としてレイの隣に座りいきなり唇を重ねてきた。ゆっくりと目を閉じる。高浜の両手がレイの首筋を何度もなぞる。思わず鳥肌が立ちレイは目を見開いた。それに気が付いて高浜は唇を離した。

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