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第5話
「……なぜ、こんなことをする」
「…………」
「そうやって、責めるような目で俺を見るのはやめろ」
「…………」
高浜は少し息を乱した。初めて自分から視線を外す。
「……高浜さ……」
高浜は立ち上がるとキッチンへと向かう。手元は見えなかったが口に何かを放ると蛇口から勢いよく水を出しそれに口を付けて飲み込んだ。それがあの薬だとレイにはすぐにわかった。高浜はシャツの袖で口を拭うと両手を突いてしばらく目を閉じてその場に立っていた。少し心配になってレイは何か言おうとしたが何を言ってもウソになりそうで黙ったままその姿を見つめていた。
責めている? そんな目をしていたのか? 高浜は気付いたか? レイは高浜の言葉を待った。そんな目をさせた自分の罪を思い出したか? 死にたいほどにレイを焦がれさせた、自分の存在の意味を。その視線に気付いたかのように高浜は顔を上げた。一瞬その目の奥が暗く光ったのをレイは見逃さなかった。立ち上がったレイの腕を強く握ると寝室へのドアを勢いよく開いた。明かりもつけず整えられた大きなベッドの上にレイを投げ出すと起き上がる前にその上に乗り上がった。言葉もなくただ抵抗しようとするレイと、シャツをむりやり破く高浜の苦しげな呼吸だけが辺りに響く。リビングの明かりを背に高浜の表情は見えなかったが取り乱しているだろうことはわかった。両手をシーツに押し付けられるとむりやり口付けられる。喉を反らすとすぐに唇が移動してそこを強く吸われた。痛みがじわりと広がる。掴まれた手首が折れそうになる。そんな力は必要ないのに。
「……いつまでそんな顔をしていられるか、見ものだな」
レイは今自分がどんな表情をしているのかわからなかった。ただここから逃げ出したい、それだけを考えていた。胸を這う唇の冷たさがレイの昂った心を冷ます。少しずつ冷静になっていく。高浜がなぜこんなに焦っているのかレイにはわからなかった。レイの何が高浜を苛立たせるのかも。高浜の指がレイのジーンズのボタンにかかる。腰が跳ねて全身が粟立った。
「……いったい、何が目的だ」
レイは高浜の冷たい声に何も答えなかった。答えられなかった。
「身体は正直だな。こんなに嫌がってる。おまえはいったい、誰だ」
レイは起き上がると高浜の身体を両手で押し退けてリビングへと急いだ。コートと携帯を持って高浜の部屋を飛び出す。追ってくる気配は無かった。エレベーターのボタンを押し、来るまでの間にコートを羽織り前を強く合わせる。開いた扉に身体をぶつけながら乗り込むと一階のボタンを押し壁にもたれる。強く目を閉じて唇を噛む。
バカだ。目的も果たせずに、自分は逃げ出した。レイは大きく息を吐いた。高浜に怪しまれるようなことばかりして。こんなに自分が幼いとは思わなかった。そう思ってレイは苦笑する。確かに子供だ。高浜にとって一回りも違うレイは子供以外の何者でもない。開いたドアの向こうに飛び出してタクシーを拾う。真優子の部屋へ帰ろう。裏切りだと罵られたとしても。今は店にいる時間だろうから帰ってくるのを外で待とう。レイは鍵を持ってはこなかった。ただどう思われようと今は真優子の顔が見たかった。真優子の声が聞きたかった。自分勝手だと思われてもそうしないと自分の心が壊れそうで。レイは俯いたままきつく目を閉じた。高浜のことを忘れないとこのままでは自分は壊れる。いっそ死んでしまおうか。様々な想いに揺られて居場所が無くなりそうな心細さがレイを強く襲っていた。
「……お帰りなさい」
少し驚いたように真優子はレイを見つめてそう言った。それ以上にレイは驚いて言葉が遅れた。
「……あの……お店は……」
「休んじゃったの。入って」
レイは真優子に肩を押されて中に入った。思わずほっとする。真優子は昼間見た白いガウン姿でソファに座った。テーブルの上にはブランデーグラスが置いてある。何と言えばいいかわからずに立っていると真優子は優しい目で座るよう促した。
「……もう、帰って来ないかと思った」
胸が痛む。そのつもりだった。帰ってきてはいけなかったかもしれない。だが今レイは弱くなっていた。誰かにそばにしてほしいと初めて思ったのだ。だがそれは言わなかった。
「……ごめんなさい」
「謝ることはないわ。……いいのよ」
レイは身体の力を抜いてソファにもたれた。真優子の視線を感じてその先にあるものを思い出して手で隠そうとする。
「……高浜さんね」
まだ疼くような痛みがある。そんなに強く痕が残ったのか。レイはそっとそこに触れた。
「……怒らせたんだ」
「怒らせた?」
真優子はいぶかしげに尋ねた。
「責めるような目で見るなって」
「……責めるような目をしたの?」
レイは首を振った。
「わからない。……自分がどんな顔をしているかなんて、わからない」
「あの人は、勘が働く人よ。あなたは、あの人を責めてたんじゃない?」
確かに自分は高浜を憎んでいるといっていい。無意識にその感情が表れたのだろうか。だとしても高浜は余裕がなかった。その理由もレイにはわからなかった。
「……わからない」
「……そう」
真優子はグラスに口を付けてしばらくすると立ち上がった。
「先に休むわ」
「……真優子さん」
「……何?」
「……もう少しだけ……ここにいてもいいかな……?」
真優子は優しく笑った。
「あなたがいたいだけ、いていいのよ」
「……真優子さん……」
レイが感謝の言葉を言う前に真優子は扉を閉めた。それは優しい精一杯の真優子の想いだった。甘えてしまう自分の弱さを愚かに思う。だが今レイはここにいたかった。外はあまりにも冷たい。人の心も冷たい。レイにとってこの世に居場所はどこにもなかった。今まで。真優子と出会うまで。だからもう少しだけ。レイは引きつるような喉の痛みに耐えながら強く目を閉じた。
レイは黒のタートルネックのセーターを毎晩着て出勤した。なかなか痣は消えずその度にレイは高浜のことを思い出して気分が重くなった。高浜は店に来なかった。何となく拍子抜けした思いだった。それは落胆に近かった。そんな感情を抱く自分が嫌でレイは仕事に打ち込んだ。
「レイくん、新しいボトル、出してくれる?」
客の接待をしていた女性に頼まれてレイは後ろの棚を振り返った。
「一番高いのでいいわよ。あの人、お医者さまだから」
レイはボトルを手にふと思い出して持ち歩いていたポケットのものを取り出した。
「あの、もし、できたらでいいんですけど、これが何の薬か教えてもらえないでしょうか」
「……? いいわよ、聞いてあげる」
女性が空の薬のシートとボトルを持ってレイにウインクして行った。高浜の飲んでいる薬がどういうものなのか知りたかった。しばらくするとその医師がわざわざレイのほうまでやってきた。
「先生」
「ああ、これだね。今、聞いたよ」
「わざわざすみません」
「いいよ、これ、君のじゃないよね?」
「……ええ、まぁ」
レイは後ろめたい気分になった。
「これはね、精神科や、心療内科で出る薬だよ。私の専門は内科だけど、少しばかり扱ったりはするから、わかるけど」
「精神科……?」
想像がつかない。あの高浜が。レイは両手を握り締めた。
「精神安定剤と、睡眠薬。いったい、誰が飲んでるの? お友達?」
「……ええ」
「ちゃんと量を守って飲めばいいけど……」
わからない。それ以前に高浜のような人間がこのような薬を飲んでいるのかさえわからない。
医師に丁寧に礼を述べて呆然として座り込む。彼に何があったのだろう。いつから病院に通うようになったのだろう。とても想像がつかない。
「レイ? どうしたの?」
「あ、いえ……別に……」
ポケットにシートを捻じ込む。真優子がいぶかしげにレイを見つめた。
「……彼、来ないわね」
「…………」
来ないならもう来なくていい。会わなくて済む。それでいいとレイは思い始めていた。すべてを忘れて、いや終わらせてしまっていい。もう生きている意味などない。いらない。もうすべてが億劫になった。何もかもが鬱陶しい。
そう思いながらレイは内心苦笑した。薬が必要なのは自分のほうだと。気分の浮き沈みが激しかったり憂うつな気分が続いたり。
「レイ、疲れているのなら、もう上がっていいのよ。あなた、休みなく働いてるじゃない」
そのほうが気が紛れると言おうとして口を噤む。高浜のことをいつも考えていると思われたくなかった。言わなくても真優子は気付いているだろうから尚更言えなかった。
「じゃ、一緒に上がりましょ? それならいいでしょ?」
「それは……」
「何かおいしいものでも食べましょ」
真優子を好きになれたら。どんなに自分は幸せだろうと思う。そして幸せとは何だろうとすぐに思う。真優子に抱いているのは今はただ負い目だけだ。すまなさだけでいつまでもずるずるそばにいてしまう自分の弱さがわかっているのに離れられないのはずるいと思う。真優子の優しさにつけ込んでいる。真優子といても自分は潰れる。なら自分の居場所はいったいこの地球上のどこにあるというのだ? どこにもない。そう思い直してレイはまた辛くなる。
「……レイ?」
「あ、はい、じゃ……」
これ以上ここにいたら迷惑を掛けるだけだ。真優子の言葉に甘えて一緒に上がらせてもらうことにした。コートを羽織り真優子と一緒にエレベーターを降り一階のフロアに出た瞬間、二人は驚いて立ち止まった。
「……高浜さん……」
真優子が少し前に出て声を掛けたが目の前に立っている高浜の視線はレイに定められていた。眼鏡越しの鋭いまなざしにレイは思わず尻込みする。冷たく吹き抜ける風に三人のコートの裾が揺れた。
「……レイは具合が悪くて、一緒に上がった……」
真優子が言い終わる前に高浜が大きな歩幅で二人に向かって歩いてくる。真優子が慌ててレイの前に立ったが高浜は軽くそれを擦り抜けてレイの腕を掴んだ。痛みにレイは眉を顰める。見上げた高浜の視線は狂気が入り混じり、レイはまさかと一瞬頭が真っ白になった。
「……亜由美はどうした」
レイは目を見開いた。真優子が口元に手を当てる。レイはそれを目の端に捉えた。
「……亜由美は、どうした」
レイは俯いた。薄笑いが漏れる。おかしくて止めようとしても笑いが漏れ続けた。その声が聞こえたのか高浜はレイの首に手を掛けむりやり顔を上げさせた。レイの冷たい笑顔に初めて高浜は少し驚いたような表情になった。
「……それは、あなたが一番よく知っていることでしょう……?」
「……まさか……」
「死にましたよ。手を離してください」
レイは思いきり高浜の手を剥ぎ取った。襟を正して歩き出す。高浜も真優子もレイの豹変に驚いて怯んだ。レイが振り返り艶やかに笑う。
「あなたが望んだ通りになったでしょう?」
「俺は……」
「……さよなら」
冷ややかにただ一言だけ残すとレイは歩き出した。真優子も急いでレイの後を追う。高浜は二人を振り返ることもできずただその場に立ち尽くしていた。
「レイ、あなた……彼女の……」
レイは立ち止まることなく歩道を歩いた。言葉が出て来ない。何も。ただどこへともなくレイは道なりに歩いた。真優子が足早にそれを追い掛ける。
「彼女の弟さんだったのね」
高浜の目を思い出す。そんなに愛していたのか。何も言えないくらいに。レイを追い掛けられないくらいに。レイはぼんやりと歩く。ただ歩いていると真優子が回り込んでレイの前に立った。
「……高浜さんも、苦しんだのよ。だから、刺されて死に掛けても、黙って許したのよ。それはあなたにもわかるでしょう。今だって……」
真優子は高浜が薬を飲んでいることも知っているのだろうか。もうどうでもいい。レイは俯いた。
「……あなた、高浜さんに何をしようとしてるの」
「……もう、どうでもいいんだ」
「どうでもいいって……」
「もう、いい」
「言いたいことがあるなら、言わなきゃダメよ」
「何を」
「……高浜さんに言いたいことがあるんでしょう? だから、探していたんでしょう」
レイは空を見上げた。明るすぎる空にたったひとつだけ光る星が見える。頬を打つ風が冷たくて心地よい。すっかり頭に血が昇っていたようだ。見下ろすと真優子が心配そうにレイを見つめていた。
「……ごめんなさい」
「……私はいいのよ」
真優子がそっと細い指をレイの腕に伸ばした。ゆっくりと握り締める。
「……私が、そばにいるわ。だから……高浜さんのことは忘れて……」
忘れる。忘れられたらどんなに楽だっただろう。ずっとあの男の影に縛られて自分は生きてきた。今更どうやって生きていけばいいのだろう。その影から解き放たれたら自分は自由になれるのか。それとも……。
「……眠りたい……」
「……早く、帰りましょ。ね?」
「……はい」
真優子の細い指をゆっくりと握り締め返すとレイは指を絡めて自分から歩き出した。
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