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 涙を流すことすら、僕にとってはおろかな行為。  なのに千坂くんは、再度優しく僕に語りかける。 「社長の愛情が栄進に届いていないとは思えません。社長は悪くないです」  僕はもっと、自分を捨ててでも代償を払わなければならない。  それでも、たりない。  栄進が少しでもさみしく思うことがないように、最善を尽くすべきだった。  けれど、栄進を愛することに限界はなく、今までだってけして愛することをおこたったとは思えず、どこまで尽くせばいいのかと、途方にくれる。 「栄進の悲しみを、全て自分のせいだとして、それで終わりにしてはいませんか? 栄進に話を聞いてみましょう」  次いだ彼の言葉に、呆然とした。  僕は。  栄進はまだ理解できないだろうと、泣いてもさみしがっても、ただただ心の中であやまって抱きしめるだけだった。  それで泣き止む栄進に、彼のとまどいが解決したのだと安心してしまっていた。  僕の不安が解消されただけで、栄進の中には言葉にされない悲しみが、僕がくみ取ろうとしなかった思いがあったのかも知れない。 「そうだね。僕は、栄進はまだ子供でわからないと思って、僕自身の悲しみだけを見ていたのかも知れない。ありがとう」  余裕のなさから、大切なものを見逃していた。  泣いてなどいられない。  果たすべき責任が一つでもわかったならば、それだけでも、果たしたい。  行き詰まった前途が開ける。  涙をぬぐって礼を言うと、千坂くんは小さく微笑んだ。  頼ってはならないけれど彼の言葉はとても貴重で、弱い僕は、助けを求めた。 「十も下の子に言うのもなんだけど、僕が迷っていたら、また軌道修正してくれると嬉しいな。僕だけじゃ、ちゃんと父親になれないみたいだ」  僕の言葉に、千坂くんは微笑みを消した。  僕を見すえ、ひざの上で組んでいた指を解き、拳を握る。  そしてゆっくりとした口調で、告げた。 「なら、一緒に、なりましょうか。栄進の父親に」  一緒に、父親に。  栄進には僕が千坂くんを好いているように見えて、千坂くんが僕を好いているように見えた。  そういう、ことなのだろうか。 「力になります。社長と、栄進のために」  今までも十分に力になってくれた。  僕だけでなく、僕がなによりも大切にしたい栄進のことも、彼がその手で扶助してくれるということなのだろうか。  千坂くんは席を立ち、ソファにかける僕の隣に静かに腰を下ろす。  その姿を目で追っていた僕と、視線を合わせてくる。  膝に置いた左手に千坂くんの手が添えられてようやく、状況を把握した。  千坂くんは、僕のことを愛してくれると言っているんだ。  驚きは、しなかった。  千坂くんは思い返せばそうとはっきりわかるほど、僕のために尽力してくれていた。  やや目蓋を伏せた彼が、僕との距離を詰める。 「栄が起きるから」 「さっき寝たばかりです」  彼の右腕が僕の肩を抱く。  栄進の母と決別してから誰とも重ねることのなかった唇が、僕が傾倒してやまない彼の唇に触れる。  僕は弱くて、一人で生きていくのは困難で。  幸せだと思えなかった僕がここまでこれたのは、彼がいたからで。  栄進を幸せにする責任を果たす自信がないけれど、彼が助けてくれるなら幸せにしてあげられると思える。  彼にすがり、触れただけだった唇が、交わる。  ぬくもりを感じ、幸福を感じる。  そして、罪悪感をおぼえた。  彼を迎え入れれば僕は幸せになれるだろう。  だけど、栄進から母親の存在を奪った罪は、消えない。  栄進を不幸にした僕が幸せになるなんて、絶対に許されない。 「やっぱり、駄目だよ」  交わりをといて、肩に置かれた彼の手をそっと外した。 「どうしてですか」  いつも落ち着いた千坂くんの口調に、めずらしく不安そうな感情がこもる。  僕はまた、自分の幸福を前に大切なことを見逃すところだった。  僕が押しつぶされた二人に対する責任、彼にこのつらさを、味合わせたくない。  彼は若くて、有能だ。  余裕のない僕と不幸な栄進を、背負わせるわけにはいかない。 「君を巻き込むわけにはいかない」  僕の贖罪に、千坂くんを巻き込めない。 「俺は構いません。社長と栄進のためなら」  ()うように眉根を寄せて誠実にうったえる彼と目が合う。  すがりそうになるのを、耐える。  懸命な表情の彼はしばらく僕を見つめ、そして、目をそらし、伏せた。 「わかりました」  彼はソファを立ち上がる。 「俺は仕事が残っているので会社に戻ります。社長は栄進のそばにいて下さい」  普段のただただ誠実な口調に戻った彼に、僕は(こた)えるようにいつも通りの笑顔を見せた。 「ありがとう」  僕は彼に愛しいと思ってもらえただけで十分だ。  これ以上は、望めない。

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