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皐月さん

―― まぶしい…。  朝か…。  ゆっくり目を開けてみて、少し戸惑う。僕の部屋じゃない。 ―― ここは…  向かい側に白い壁が見えて、天井まで、真っ白い一本の線が伸びている。カーテンの隙間から、朝日がさしこんでいるのだ。  白い壁には、同じ大きさのフォトフレームが横一列に5枚ほど並び、赤い画鋲でとめられてあった。見慣れない部屋。現状を取り戻すまでしばらく、ふわふわとした軽い混乱の中に息を潜め、じっと様子を見守る。  目の前に見える、シーツの上の真っ直ぐに伸びた腕。  僕の下から伸びているが、僕の腕じゃない。立花くんの腕だ。…いや、 (…“ナツキさん”の、腕。)  そうだ。ここは、ナツキさんの部屋。  『ナツキ』とは、立花くんの本名だ。  どうやらナツキさんの腕を枕がわりにして寝てしまっていたらしい。 (僕が乗ったままでは、重いだろう。)  体を動かそうとするが、うまく力が入らない。寝起きなのと、昨日ナツキさんに縛られたのがひびいていて、腕がしびれているせいだろう。 「…は…」  無理やり寝返りをうつと、体中が、ぎしぎしと鈍く痛む。思わず小さく息を吐いた。  結局、ナツキさんに背を向けていた体を上向きに変えたところであきらめて、じっとする。  悪いけど、少しの間、ナツキさんに甘えてしまおう。しばらくすれば動けるようになるだろう。  ナツキさんは規則正しい間隔で呼吸を繰り返している。深く眠りこんでいるようだ。息が耳にあたって、少しくすぐったい。起こさないようにゆっくりと頭を倒して、ナツキさんを見る。  その寝顔に、どきりとする。  ナツキさんは、こうして見ると、とても端正な顔立ちをしている。  少し伸びた前髪の向こうに、今は伏せられているが、切れ長な目と、整えられた眉があって、うすいまぶたからこぼれ出ているまつげも、ふさふさと長い。  僕もまつげが長いとはよく言われるけど、そのおかげでとかく女顔に見えてしまうのに対し、ナツキさんは顔の彫りが深いので、日本人離れして格好よく見える。肌もきれいだ。 (…こんな顔、だったんだ…。)  昨日、何度も見たはずなのに、僕にはナツキさんの顔の印象が残っていなかったようだ。  彼に集中する余裕がなかったせいだろう。なにしろ、昨日までの僕は… …皐月(さつき)さんのことで、頭がいっぱいだったから。 ―― 面倒を見てもらえ…か…。  きれいなナツキさんの寝顔を見て、“さすが、皐月さんが、僕のために見立ててくれただけあるな”、などと考え、ふ、と自嘲ぎみに笑ってみる。しかし、その瞬間、心のどこかがきしんで痛くなった。  僕は、まだ、…あんな皐月さんのことが、好きなんだろうか…。 (それとも、もう…。)  まだ少しふわふわとしている意識と、あいまいな記憶とをはっきりさせたくなり、もう一度、天井にまっすぐ引かれたまぶしい線を見た。  外はよく晴れているようだ。  昨日…昨日は、 (そうだ、ひどい雨だった…。) …そう。  記憶が徐々に覚醒してくるのと同時に、僕は思い出した。  謝らなければ。  ナツキさんに。  僕は、昨日、ナツキさんに、…立花くんに、悪いことを、たくさんしたのだ…。― ***  ホテルのベッドで震えていた。  立花くんはシャワーを浴びている。  ショックだった。  アイマスクをはずせないまま、“立花くん”という、顔もわからない、しかも、男に犯されたこと。  しかもそれは、皐月さんの命令だったこと。 ――…そして、僕の体が、彼のそれを受け入れて、…悦んでいたこと…――。  自分でも信じられないが、立花くんの体は、不快じゃなかった。それどころか、言いようのない快感を幾度も味わって、何度もイッてしまった。  あんなのは初めてだった。  いや、なにかを塗られたせいかもしれない。  それとも、僕は、ああいう行為に悦びを感じる種類の人間だったのか…。  立花くんに抱かれると、自分のどこかが壊れていってしまいそうで… …それが、一番、怖かった。  掛布団に、頭からくるまって、震えながら息を長く吐いていたら、突然、密閉されていた部屋の空気がすうっと動いた。 (…!)  “あのとき”と同じ。  誰かが廊下から入って来たのだ。  さく、さく、と、絨毯を踏みしめて、その誰かが、僕に近づく。  バスルームからはまだシャワーの音が断続的に響いて聞こえていたので、立花くんじゃないことは確かだった。 (…皐月さん!)  そっと動こうとして、上から、ぽん、と手を置かれた。 「しー。そのまま。いい子にしててね。」 ―― ああ!あの声だ…。  機械を通してじゃない、加工されずに届く新鮮な皐月さんの声は、“あのとき”と同じ、とても澄んでいて、きれいだった。  体中が、緊張のせいでますます震え始める。  皐月さんが、いる。  すぐ、そこに。  “あのとき”みたいに―― **** ****  皐月さんにこれ以上会うべきじゃない。クスリを断つための中和剤さえ手に入れたら、もう、二度と会わない。  そう心に決めて、あの日、僕は皐月さんに“挑んだ”。  皐月さんに会うまでは、正体不明なまま無茶な指示を出す皐月さんが大嫌いだった。今の立花くんと、同じ。  ところが、僕が最後に会うと決めたその日、皐月さんは、初めて僕の前に姿を現した。  目を閉じるように言われていたのに、皐月さんを、一瞬だけ、僕は見てしまった。  そしてその瞬間、…挑むどころか僕は…皐月さんに、  狂ってしまった…。  皐月さんは、想像と全く違って、とてもきれいなひとだったのだ。  細身のうえ長身で、想像してたのよりずっと若い人だった。少し伸びた黒い髪を、後ろで小さくまとめていた。  体を拭いてもらった。  黒い革の手袋をしていた。  柔らかく、落ち着いた振る舞いには気品があって、その辺の大人たちとは異質なくらい、魅力的な人だった。  一度だけ目が合うと、皐月さんは、薄いくちびるに穏やかな笑みを浮かべた。 …僕は、その瞬間、人生で初めて、人を好きになるという感情を知った。  皐月さんは、僕に直接触れることもなく、約束どおりに中和剤をくれて、そのまま部屋を立ち去った。  それきり。  それが僕のなかの皐月さんの記憶のすべて。  でも同時に、その記憶は、その日から僕自身のすべてとなった。 ----------→つづく

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