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最後の指令

 皐月さんのことを考えるだけで、それまでクスリで発散していた僕のイライラは一気に緩和され、それは実に稚拙で、些細なものだったということがわかった。僕のこれまでいた世界が、いかにちっぽけでくだらないものだったのかを、理解することができた。  皐月さんの存在は、束縛に耐えきれず不安定な世界におちいりもがいていた僕が、闇から一気に浮上し、広い世界を知るための原動力となった。 …まあ、皐月さんのいない、広いだけのこの世界は、僕にとってはいっそうくだらないものだったことも、同時にわかってしまったのだけれど…。  とにかく僕は、皐月さんのことばかりを考えて過ごすようになった。 ――『お気に入りなんだけどなあ。キミは。』  実際に言われたときは寒気がしていたのに、その言葉を、僕は頭の中で繰り返し反芻し、じっと意味を噛み締めてみたりするようになっていた。  少しでも皐月さんに近づきたくて、皐月さんを真似て後ろ髪を延ばしてみたりもした。  皐月さんに、また会いたかった。  会いたくて、何度もメールを送った。  どのメールも、僕のくだらない近況報告で始まって、最終的には、“クスリはいらないけど、もう一度あなたに会いたいです”、といった内容で終わる。  でも。 ――『また会いにおいで。』  皐月さんはそう言ってくれたのに、何度送っても、返信は無かった。 ――『 お気に入りなんだけどな 』―― …そう言って、くれたのに。 ―― クスリが目的じゃなかったら、会ってはいけないのか?  半ばヤケになって、先日、メールの内容を、『クスリをまた始めました。無くなりそうなので、また会えますか?』にしてみた。  皐月さんから返信があったときは、嬉しかった反面、不安にもなった。  僕は、皐月さんにとって、やっぱり、ただの“お客”でしかなかったのか。  そして不安は、立花くんの登場で、現実のものになってしまった―― **** ****  ホテルの部屋に入ってきた皐月さんは、ベッドの周りをゆっくりと歩いて、時々止まっては何かを拾い上げているようだった。  皐月さんに言われたとおり、ベッドの上で掛布団をかぶったままの僕は、動かずに、…動けずに、息を潜めて、じっと皐月さんの動向を探っていた。  ときおり布がこすれる音がして、たぶんそれはシャツを広げる音で、皐月さんが僕たちの制服をたたんでくれているのだとわかった。  何か言わなければ。  こんな思いまでして、ようやく会えたのに。  とりあえず、立花くんのように、激しく怒ってみせようか。  あなたのせいで、こんな目に。  僕は、あなたに、ただ、会いたかっただけなのに。  僕、あなたに憧れて、ほら、髪だって伸ばしたんだよ―― 「最後の指令。」  突然皐月さんから声をかけられたので、呼吸と思考が一瞬、同時にストップする。 「キミへのペナルティは、立花くんのペットになること。」 ……。 …え……? 「彼はいい子なのに、家ではさみしい思いをしてるんだ。だから、彼がさみしがっているときは、彼を慰めてあげましょう。彼は、根はとてもいい子だから、キミの面倒をよく見てくれるよ。」 …? ―― …皐月さんは、何を、言ってるんだ…? 「初めて会ったけど、嫌いじゃないでしょう?彼のこと。なにしろキミのために僕が用意してあげたんだ。」 …本気…なのか? …最初からそのつもりで、僕と立花くんを…?  それとも僕へのペナルティとして、たんなる思いつきで言ってるのか?  だとしたら…残酷すぎる…  掛布団のすきまから黒い人影が横切るのが見えた。 (待って…皐月さん!)  気づくと僕の手は、皐月さんの黒いシャツをつかんでいた。  振り返って僕を見る皐月さんの、少し驚いた顔。  黒く澄んだ瞳も、形のいい鼻もあごも、あのときと変わらない。細い体も、結んだ後ろ髪も。 (なんでもします!僕、あなたのためなら、誰のものにだってなるから、だから、――)  のどがつぶれて声が出ない。どうしても伝えたいのに。 (一度でいいから、抱きしめて欲しい ――)  皐月さんに、触れて欲しい…  そう思った瞬間、涙があふれてきてしまった。  声に出して言えないまま、僕はついに、皐月さんの前で泣き出してしまったのだ。  皐月さんは、また穏やかな笑顔に戻り、だけど、…僕にとっての最悪を口にした。 「また僕の言うことが聞けなかった。そのままいい子にしててねって言ったのに。僕のことは、忘れなさい。いい?僕もキミには、二度と会わない。今度こそね。」  手を黒い革の手袋ではらわれた。笑顔なのに、目だけは少し冷たいことに気づいた。 「立花くんのシャワーが終わったら、一緒に帰ろうって誘ってすぐに帰ること。この部屋にキミがいる限り、僕はここには来ない。待っても無駄だからね。もっとも、すでに立花くんが、キミのことを放っておかないかもね。キミも、」  皐月さんは、今度は柔らかく微笑んだ。 「…素直になるんだね。誰かを求めて、自分の理性に逆らうことは、悪いことじゃないんだよ、菖蒲(しょうぶ)くん。」  皐月さんは、ベッドのうえで凍りついたままの僕を残して、ゆっくりと立ち去る。  バスルームから、いきなり『ドン!』という音がして、皐月さんの声で、楽しげに「こらこら、壊れちゃうよ?」 と言うのが聞こえた。  ドアが開いて、  閉まる音がして、  部屋はまた  静かになった。  あまりのショックに、涙は逆に止まってしまった。  対面の鏡の中に、ベッドの上にだらりとへたりこんだ、情けない少年の姿が映りこんでいた。  その顔面は蒼白で、もがき苦しみながら死んだあとの、感情の抜け落ちた死人のような顔つきをしていた。 ***  陳腐な言い方をすれば、僕の淡い恋心は、ズタズタに引き裂かれた、というわけだ。  思い出しただけで、自分のあまりの哀れさに涙が出そうになり、少しあわてる。ナツキさんに見られてしまったら、とても恥ずかしいことのように思えた。涙の理由を聞かれても、今の僕にはまだそれに答えるだけの余裕がない。  でも彼は、相変わらず静かな寝息をたてているので、ちょっと安心して、気持ちを落ち着かせようとゆっくり息を吐きだした。 ――『ナツキさん』…か。  ナツキさんの目が覚めたら、どちらで呼ぼう?  彼は、皐月さんのことが大嫌いだから、『立花』と呼ばれるのは嫌がるだろう。でも、ナツキさん、というよりは、立花くん、のほうが、僕にとってはまだしっくりくる感じがする。  立花くんの本名には気づいていた。彼を本名で呼ばなかったのは 、尊重すべきだと思っていたから。皐月さんがつけてくれた、『立花』という名前を。 ――『俺は“立花”じゃない』  痛みと、悦楽のはざまで、立花くんに言われた。 ――『“くん”じゃなくて、“さん”だろ。先輩だぞ、俺は。』 …激しく味わった快楽の数々に、ひとり、気恥ずかしくなる。  天井の白い線は、いっそう鮮明に、そのまぶしさを増してきている。  立花くんの本名を知ったのは、昨日、タクシーから降りて、この家の前に立ったとき。門に据え付けられた表札が見えたのだ。  表札には、“ NA TSU KI ” とあった。 『…いいなあ。』 名前が、少し似てる。 『なにが?』  立花くんに聞かれていたので、僕はとっさに『戸建。』と、家を褒めてみた。  あんな目にあわされて、しかも、ひどいペナルティまで課せられたというのに、名前に嫉妬してしまうほど、その時の僕の頭の中は、いまだ、皐月さんでいっぱいだった。(『皐月』という名前だって、ただの偽名なのに。)  立花くんはそのとき、僕を心配して、僕の体が濡れることをひたすら気づかってくれていたように思う。でも僕は、そんなことに意味なんて感じていなかった。自分の体のことなんか、まったくどうでもよかったのだ。  憔悴しきっていた。皐月さんからフラれたことに。  悔しかった。  皐月さんが、僕に、自分のことを忘れろと言うなんて――  僕は自己中心的で、皐月さん以外の人間に興味がなく、おかげで立花くんに対しても情けないくらい冷淡な態度をとった。立花くんが怒るのも無理はない。 ------------→つづく

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