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立花くん

 立花くんは、悪い人じゃない。それは、なんとなくわかっていた。  皐月さんの指令に怯える僕に、イくふりでいい、と言ってくれた。それが失敗すると、今度は指令を早く終わらせることだけを考えて行動してくれた。  でも、皐月さんの言う通りに彼を受け入れて、彼の従順なペットになるなんていうことを、そのときの僕が、すぐに受け入れられるはずもなかった。 …だから、昨日の僕は、立花くんのことを、皐月さんの命令で動くただの人形だと思い込むことにしてしまった。  僕が皐月さんのことしか考えていなかったように、彼も、クスリのことしか考えていない、単純な人間なのだと…。 ―― 立花くんは、僕を捕まえに来たんだ。  ホテルを出て、立花くんに声をかけられたとき、僕はそう思った。 ―― 『もっとも、すでに立花くんが、キミのことを放っておかないかもね。』  ほらね、皐月さんの言ったとおりだ、と。  僕をタクシーに詰め込んだのは、逃がさないようにするためなんだと決めつけた。  皐月さんのことでヤケを起こしていた僕は、皐月さんと立花くんは実は裏で繋がっていて、僕を陥れようと躍起になっているのだ、と、そう…思い込むことに、した。  そうすれば少なくとも、「浮かれて皐月さんに会いに行って、別の男に辱められたうえ、皐月さんにふられてその男のペットになる」などという不名誉な屈辱からは、逃れられるんじゃないか。 …だったら僕も一緒になって、この状況を楽しむしかない。どうせこの体は、勝手に悦んでしまうんだろうし…。  僕は、なかばヤケになって、立花くんの家で、立花くんの“命令”に従うことにした。立花くんを、受け入れようとした。  悦んだ顔を見られるのはいやだったから明かりは消してほしかったけど、立花くんはそれもしてくれなかったので、これは決定的なんだと思った。彼は、僕をいじめて喜びたがっている。  そしてホテルのときと同じように、立花くんの刺激を受けて、僕の体は…、確かに、悦んだ。 …そのとき、はっきりと自覚した。  僕はただ、情けないほど淫らで、どうしようもない人間だったということに。  『一緒に楽しむ』なんて、生半可な覚悟で臨んでおいて、実際は、立花くんと繋がりたがってるのは、命令だからでもなんでもなく、僕自身の意思。 ―― 『いいよ、“フリ”じゃなくても…』  ホテルで、立花くんを楽にしてあげたくて言ったひとことだったけど、本当は、すでにあのときから、僕のほうが、彼を欲しがっていたのかもしれない。  脳裏に皐月さんの言葉がよみがえった。 ―― 『初めて会ったけど、嫌いじゃないでしょう?彼のこと。』 …皐月さんの、言ったとおり。 ―― 『誰かを求めて、自分の理性に逆らうことは、悪いことじゃないんだよ、菖蒲くん。』  皐月さんはわかっていたのかもしれない。 …僕が、心のどこかでは立花くんの体に溺れたがっている、という、最悪な事実を。 ―― 結局どこまで行っても、何を思っても、それらはすべて、皐月さんの描いたループの中での出来事なのかもしれない。  いっそのこと立花くんが、僕の思うようにただの人形だったらよかった。  立花くんが悪い人じゃないことは、もはや皐月さんのループを裏付ける証のように感じられた。  僕は、そうやって、皐月さんの作り出したループの、さらなる深みに、はまっていくんだ。  皐月さんに与えられた、立花くんという媒体を使って、卑しくて淫らな欲望の淵に沈んで…戻ってこられなくなる… ――『…やだっ!いやだ離せ…!』  そう結論付けた瞬間、自分が怖くてたまらなくなり、結果、弱虫で腰抜けの僕は、立花くんを受け入れることも出来ずに泣きだしてしまった。 『…我慢しないと…いけなかったのに……こ…こわくて…。…』  僕のどこかが壊れるのが…狂ってしまうのが、怖かった。  どうしていいのかわからなくなり、僕はますますヤケになって、とうとう立花くんに、そのイライラをぶつけてしまった。 …だから立花くんは、怒ったのだ。  僕の身勝手な空想に付き合わされていたと知ったから。  昨日、限界まで追い詰められて、もうろうとした意識の中で、立花くんの涙を見た。  立花くんは、少し怖い顔をしていたが、確かに泣いていた。  悔しかったんだ。  僕は、立花くんの優しさに気づかず、無意識のうちにそれを踏みにじり続けていた。  タクシーに乗せてくれたのも、お風呂に入れてくれたのも、リンゴを食べさせてくれたのも、それらは全部、彼の優しさで、…愛情だったのに、僕はそれを、ないがしろにして見下した。自分を正当化することに、ただ、必死になっていた。  僕は、そのときになってようやく、そのことに気づいた。 ―― ごめんなさい。  意識が落ちる直前、たぶん僕は、彼に謝ろうとした。  彼は自分が泣いていることに気づいていないみたいだった。手を伸ばして、涙をぬぐってやりたかった。が、その前に立花くんに手を握りしめられて… ―― ナツキさん  僕の気持ちはどこまで彼に届いていたんだろうか。意識はそこで途絶えている。 …僕は、なんてひとりよがりで、愚かだったんだろう。  立花くんは僕のことを、守ってくれようとしてくれていたのに。 (誰かを求めて、自分の理性に逆らうことは、悪いことじゃない。)  そのことを認めて、そんな自分を、許せていたなら…。  対面の壁の眩しさに目が馴染んでくると、壁のフォトフレームには、CDのジャケットが飾られていることがわかった。昨日立花くんが言っていた、彼の好きなバンドのものも、その中にあるんだろうか。  ふと、荻本(おぎもと)くんの顔が浮かぶ。  クラスメイトの荻本くんの部屋の壁には、男子のくせにジャニーズみたいな男性アイドルのポスターばかり貼られてあって、少し気持ちが悪かった。  『勉強を見て欲しい』というから部屋まで上がったのに、彼のノートを見ていたらいきなり後ろから抱きつかれた。  首すじをなめられたので、思わず手にしたシャーペンで荻本くんの腕を強く突いてしまった。血が出ていたけど、いきなり驚かした彼が悪い。  部屋を飛び出して、それ以来、荻本くんとは口を聞かなくなった。荻本くんも僕を避けている、…というより、怯えている。ケガをさせられることじゃなく、僕に、さらに傷つけられることが怖いんだろう。 ―― だったらしなければよかったのに。  避けられるたびに僕はそう思った。 …でも、今なら、わかる気がする。僕が皐月さんにしたかったことと同じ、彼は僕に、必死に想いを伝えようとしていたんだ。でもやり方がわからず、緊張して、混乱して… (…変なの。)  彼のとった行動についてなんか、今まで考えたこともなかったのに。  皐月さんにフラれて、自暴自棄になった僕は、たった一晩で、他人だった男の人の部屋で寝て、その人に対して罪悪感を感じ、荻本くんのことまで思い出している。皐月さんのことばかり考えていた昨日までは、感情がこんなにブレたことはなかったのに。  皐月さんへの想いから少し視点をずらしてみただけで、世界には、こんなにいろいろな場面があったんだ。そのことに気づき、今までの小さな自分を、改めて恥ずかしく思う。  僕は、変われるのかな。  皐月さんの言ったとおり、立花くんのおかげで、皐月さんのことを完全に忘れることが出来るなら…。  きっと、僕の中の、何かが変わる。  そんな気が、今はしている。  天井に引かれた白い一筋の光。あの光みたいに、立花くんは僕を、導いてくれるのかもしれない。  救ってもらえるのかもしれない。  立花くんを受け入れることは、きっと、こわいことではないんだ。 …ありがとう。  さようなら。皐月さん。  今なら素直に、心からそう言える気がした。 ---------→つづく

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