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14 眩惑

 二度と会いたくないと願ったばかりだというのに。  その日の夕方、アパート近くの小さなスーパーで大我は河南(かなん)に遭遇した。  河南も一人で買い物をしている様子だったが、大我と目が合うと銀縁眼鏡の奥で微笑みながら歩み寄ってくる。 「白石くん、このへんに住んでるの?」 「そーだけど」  警戒しながら返事をする。  河南は大我の手にした買い物カゴの中身を見る。  冷凍食品をいくつか入れたが、野菜や肉が詰めてある。 「弁当だったから実家暮らしなのかと思ったら、自炊してるんだね?」  河南のカゴにはペットボトルの飲料や菓子類、弁当や惣菜が入っている。  一人暮らしの大学生らしい買い物とは、このようなもののことだろうか。 「してない」  瀬峰が教えるなと言ったから、そして苛々するから、大我は問いに対してあからさまな嘘をつく。  河南に会いたくないというのは自分の都合で、河南本人には全く関係のない話だ。  つれなくしては不審に思われてしまう。  だが、もう遅かった。  河南は大我の様子を見て、困った表情で笑った。 「僕さ、白石くんになにか悪いことしたかな?」 「あのさぁ! こんな意味不明に不機嫌で生意気なやつ、ほっとけば良くない?」  記憶にある表情に思わず反発して、更に語気が荒くなった。  大我の剣幕に、河南が表情を引き締める。 「僕、なにもしてないはずなんだけど。なんで怒ってるのか教えてもらわないと、ちょっとこの仕打ちは納得できないな」  答えたくない。  大我は無言で河南の横をすり抜ける。  しかし河南は後を追い、大我の腕を掴んだ。 「家近いんでしょう、招待してよ。ここで長話するわけにもいかないから」  振り返る。  不当な仕打ちをしたというのに、河南は穏やかに笑んでいた。  南方とは、少し違う。  大我は河南の手を振り払い、 「わかったよ」  と渋面で承諾した。  会計を済ませ、アパートに向かう。  河南は不機嫌な大我に構わず、高校はどこだったか、実家はどの辺りなのかと世間話を振ってくる。  淡々と答え、大して時間をかけずにアパートへと到着した。  一階中央付近の扉の鍵を開ける。 「いいとこ住んでるね」  部屋に上がると河南はそう呟きながら、大我に続いて洋間に進み、部屋を見渡す。  天井が高く窓が大きい洋間はレースのカーテン越しでも採光が良く、メゾネットタイプの寝室でベッドがないため部屋が広く感じる。 「親のこと困らせようと思って、いいとこにした」  照明を点けてカーテンを引く。  キッチンに引き返し荷物を片付けながら返すと、テーブルに着いた河南は小さく笑った。 「はは、なんで困らせるの」 「嫌いだから。ねぇなんか飲む?」 「僕のことも嫌いなのに、もてなしてくれるんだね。いいよ、自分で買ったもの飲むから」  愛されたくて愛する人から学んだ礼節は、身体に染み付いて時折他人を戸惑わせるようだ。  いつも誰かしらに意外だと言われる。  自分を正確に把握する人間は、この世界のどこにもいない。 「あんたのこと、嫌いなわけじゃない」 「じゃあなんで怒ってたの?」  全ての荷物が片付くと、大我は河南の背後、黒革のソファに身を沈める。  河南はテーブルに肘をついて大我を振り(あお)ぎ、答えを待つ。 「高校のときに好きだったやつに、雰囲気似てたから」 「えぇ? 似てるなら、僕のことも好きになるんじゃないの? どうして恐い顔するのかな」  大我はそこで改めて、河南の顔を窺った。  若く、髪の色もやや茶色がかっていて、やはり南方に似てはいない。  でも似ている。  穏やかな口調や、笑い方、困惑の表情。 「だって本気で好きだったのに、付き合いたくないとか言われて、それきり、もう優しくしてくれないし。優しい顔、してるのに」  河南の顔立ちや性質は本来なら、自分が興味を持つ種類のものだ。  南方を知らなければ、恐い顔などせず逆に、河南を意識していたのではないか。  ひたすら優しい顔をした河南は、優しい顔のまま、唐突に不可解なことを言った。 「代わりに僕が、白石くんに優しくしようか?」 「なんで? あんたも男が好きなの?」  瞬時に気色ばむ。  この男は警戒すべきだ。  隔てを置こうと、頭の中で必死になる。 「そうじゃないけど、白石くん、情緒不安定でなんか心配だし、生意気なところがかわいいなって思って」  必死なのに、(さえぎ)れない。  いつもなら男に想いを告げても真っ先に否定されるのに、想いを告げてもいない男が悠然と踏み込んでくる。 「こういう気持ちって、結構急に湧いてくるものなんだね」 「それ、わかるけどさぁ、急過ぎるだろ。さっきまで俺、あんたに会いたくないって思ってたんだけど」  変わらず冷たくあしらう大我に、ようやく河南が表情を変える。  優しさの裏に、不明朗ななにかを含んだ微笑み。 「正直ね、気持ちだけじゃなくて、欲が湧いたんだよ。白石くんみたいな生意気な子を抱いたら、どういう反応するんだろうなって」  同性愛者ではないであろうこの男が、身体が目的という発想に至るのか疑問だが。 「抱けるの?」 「試してみようか?」  河南は立ち上がり、ソファに掛ける大我の隣、接触するほどの距離に着く。  恋人でもない人間に抱かれたらどんな気分になるのか、南方は考えろと言った。  相手が誰でも嬉しいと、自分は答えた。  実際のところはわからない、だから、試してやる。  河南は大我の肩に手を掛けると、元の穏やかな笑顔で躊躇(ためら)いなく唇を重ねてきた。  柔らかな感触が二度三度ゆっくり交わり、大我は目を閉じる。  好きな相手ではないのに、身体が痺れてくる。  やはり、相手が誰でも嬉しいではないか。  やや長く唇が重なると、河南の舌が歯列をなぞってきた。  大我も舌を差し出して、絡める。  脱力して瞼を上げると、河南は唇を離して大我を見つめてきた。 「生意気なのに、そそる顔するんだね」  大我はなにも言わず、河南を探るように見上げる。  河南はやや熱を帯びた表情で再び口を開く。 「親と仲、悪いの?」 「なに、急に」  河南の左手が大我のベルトに伸び、右手は大我の脇腹を撫でるように黒いシャツを(めく)っていった。 「心配だって、言ったでしょ」  囁きながら河南の頭が胸に寄せられ、舌先が皮膚に触れる。  優位に立たれていることに苛立って、気分を滅入らせてやろうと口を割った。 「俺、多分、父親と血が繋がってないんだ。世間体のためだけに、家族やらされてて」  ベルトの金具が外れると、衣服を解放して下着の上から河南の手が触れる。 「母親も、路頭に迷いたくなくて、俺を利用してて」  河南は本当に今、自分を抱く気なのか。  青葉に打ち明けたときは、改めて言葉にしたことで心が折れて、落涙した内情。  暗い事情を語りながら、快楽に戸惑い身悶えする。  河南は大我の胸を軽く噛んでから頭を起こし、耳元で(つぶや)いた。 「白石くんはなにも悪くないのに、それを耐えるのは、辛いものがあるね」  そして大我の頭を抱いて、髪を撫でた。  こんなまだよくわからない男の前で弱みを見せたくない。  涙をこらえたかったが、やはり無理だった。  涙に気づいた河南は、大我の目尻に口づけて、再度胸に口づけながら下腹部の素肌に触れようとする。 「待って」  河南が顔を上げる。 「どうしたの」 「準備するから、待って」  立ち上がり、衣服を正す。  河南は鞄から煙草を取り出すと、 「外で煙草吸ってるから」  微笑みながら大我の頭を撫で、静かに部屋を出て行った。

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