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第2話 選ぶ

 毎朝7時までに目覚ましが鳴る。7時までというのは言葉通りで、携帯が体動を検知し一番気持ちよく起床できるタイミングでアラームを鳴らしてくれる。体調によって起床時間は大きくバラつくため、日によっては予定よりも一時間前倒しにされることもあり、どうしても損した気分になるのが玉に瑕だ。この生活リズムは夏休みの間も変わることはなく、なんなら所属する部活動のために平常時よりも早く布団から出ることがあったくらいだった。  しかし、どの時間帯にせよ父親の影が無いのは変わらない。姿かたちはもちろん、生活してたんだろうなという手掛かりを一切残さずに仕事場に発つ。そして僕が眠りに落ちた後にそっと帰ってくる。つまり父の姿を見かけることはほとんど無いのだ。  だからといって帰宅してないわけではなく、毎朝欠かさずに書置きを残していくのが父だった。冷蔵庫にアレコレがあるから温めて食べてね、とかお土産に貰ったソレコレを置いとくから食べていいよ、など基本的に不干渉ながら親らしいことはしてくれていたが、慣れというのは怖いものでいつの間にか僕は父親の心遣いに何も感じなくなっていた。  8月のある夕暮れに珍しくインターフォンが鳴った。出てみるとそれは父親の会社の同僚で、4日ほど無断欠勤を続けている父が心配になって訪ねてきたらしい。いつから父親は帰ってきてないのかという問いに初めて僕は「父親が失踪していた」ことを認識して驚愕した。いや、本当のことを言うと驚愕というのは正確じゃなくて、ただ「この後どうやって暮らしていこう」という一点だけが気掛かりだった。  当面はクレジットカードが使えるし元から家事は自分でやっていたと理由付けて、取り敢えず何事も無いようにまた暮らし始めた。蓮さんに出会ったのはそれから2日後のことだった。  場所は駅から高校へと向かう通学路。本来なら地下鉄から階段を上り右へ行くところ。ひとひらの黄色い花が眼前で踊り左へと曲がる。男は本能的に動くものを目で追ってしまうという話は聞いたことがあるけどそんなヤワな引力じゃなく、ドラマチックに言えば僕は運命的に花の向かう方へと吸い寄せられていった。その花弁は風に巻き上げられながら自分の意思があるかのようにバランスをとって僕を導く。追いかけて追いかけて都会の誰も通らないような裏路地に差し掛かったその時、僕は視界の中から、けれど意識の外から声をかけられた。 「君が杠葉(ゆずりは)くんだね」  目の前に立っていたのは知らない――知らなかった――男、蓮さん。 「君を守りに来た」 その後の沿革は誰にとっても驚くべきほどトントン進んで、花屋町に着き二、三軒挨拶回りをした後、父親と親交が深かったという70前後のおばあちゃんの宅で夕飯をご馳走になった。いかにも由緒の正しそうな大きい日本家屋。そのお茶の間の中で初めて自分がしばらくの間この家のお世話になること、そして明後日の9月1日から学校に通うということを知らされた。いやあうっかり伝え忘れてたな、といったふうにわざとらしく後ろ頭を掻く蓮さんの抜け具合にため息が漏れる。結局「おばあさん」とやらは僕の親族ではなかった。  午餐の後はいつも通りに早い内から布団に潜り「明日は部活があるわけじゃないから寝る必要はないんだけどな」と思いつつも、そこに自分の主体性が感じられたのが少し嬉しくなって敢えて眠りにつくことに決めた。  客観的に見れば母親にも父親にも逃げられて可哀想な苦学生に見えるのかも知れないけれど僕は初めて自分の選択で今を生きている気がしてワクワクが止まらなかった。  父親の座右の銘というか教育方針は「自分の道は自分で決める」ということ。あってないような教育方針だがいったん同級生の動向にアンテナを張り巡らせてみると、親が親がと嘆きながら「やりたくないこと」を淡々と続けてる人種が大勢いることに気が付く。小学生だったながらもその全部が惨めに、もっと言うとゾンビのように見えてクラスメートから日々こぼれる自虐にみせかけた多忙自慢には本気で同情の目を送ってきた。  幸運なことに自分自身はそこまで怠惰には育たず、適度以上に運動し適度以上の勉強を続けた結果15歳の高校一年生の春にして「エリート」だとか「真人間」だとか「人格者」だのの称号を総ナメにすることになる。それを自覚した最初の一、二か月は少しだけ得意な気になって、これが自分で自分を持つことの大切さだなんて踏ん反りかえっていたけれど僕はすぐにその行為の愚かさに気がついた。  思えば自分で道を「選択した」ことなんてただの一度もなくて、歩んできた全てが危険の回避に過ぎなかった。普通に学校に通って部活に行って勉強して、そんなものはこの世間に元から敷かれているレールでしかない。そして僕はその上を丁寧に走っているだけだったが、今日という日が選択肢を与えてくれた。  これから僕はなんでもできる。不自由に身を置き孤独に追い込まれて初めて真の選択を意識することができた。明日は何をしよう。学校では何ができるんだろう。思いを巡らせて自由にひたひたになりながら、僕は自由の下に眠りへと落ちていった。 * * * 「センセ、――持ってきたよ!」  遠くから大きな声が聞こえてくる。優しく起こされるだけでも苦手なのになんてデリカシーのない目覚ましなんだろう。 「センセ、これ! 昨日言ってたやつ」  ダンッと重い何かをほうった音が縁側を伝わり、障子をくぐって頭に響く。目覚めとしては間違いなく最悪だ。 「こら!」おばあちゃんからの指導が入る。 「いつもゆっくり運べと言ってるだろうに」 「はいはーいごめんって」  声の主はかなり若く、同い年くらいの女の子。もしかしたら同い年で明後日からはクラスメートなのかも知れない。 「杠葉くんはもういらっしゃってるんだよ。そこのお部屋でまだお休み中だ。万一でも起こしたりしたら申し訳ないと思わないのかい大体お前は――」 「杠葉って噂の転入生? その苗字……外モンじゃなかったの?」  おばあちゃんの指導が説教の様相を呈し始めた頃、女の子は絶妙なタイミングで質問をぶつける。 「本物の外モンがこんな田舎にやってくる理由がないだろう。同じクラスになるんだろうからちゃんと仲良くするんだよ」  一瞬外モンって言い方からかなりキツイ印象を受けていたが、どうやら蔑称というわけではないらしい。日本人が海外の人を「外人」って呼ぶのと全く同じ感覚なんだろう。というか外者なんだから全く同じだ。 「言われなくとも! そっちこそ仲良くしすぎとか言って私たちを邪魔したりしないでよね。わたし、外国にすごい興味あるの。知ってるでしょ」 「別に止めたりなんかせんよ。そんな決まりココにはないだろう」  人が狸寝入りを決め込んでいるのに気づかず、警戒心ゼロのまま二人は興味深いことを口走る。外国? そんな決まり? 案外栄えた町が広がっているのに驚いたけど会話の内容は限界集落そのものだ。 「そういうことなら早くご挨拶しないとね」  嘘だろと言う暇もなく自室の障子が勢いよく滑っていった。そこに立っていたのは田舎のイメージとは程遠い、茶色の長髪を蓄えた等身大の女子高校生。 「起きてるじゃない。わたしの名前は藤 アヤ。あなたは?」  格子の縦框に手をかけ心を躍らせた様子で人を見下ろす藤アヤ。僕が望んだ自由なんてものは、どうやら1ナノもなかったらしかった。

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