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第3話 認識のズレ
「わたしの名前は藤 アヤ。あなたは?」
ガララッと戸が開き12畳の全てが朝日に照らされる。信じられないほどの鬱陶しさに憤りなんて直ぐに飛び越して穏やかな心が戻ってきた。
「うーんと、取り敢えず顔を洗ってくるよ」
目をこすりながらお互いの言動の妥協案を探ってみる。
「こら!アヤったら何てことを――」
小走りで近寄り縁側に足をかけようとしたおばあちゃんと目が合う。
「ああ、杠葉のところの柚木くん。もう起きてたのね。体調はどう?」
僕が起きていたことに気づくと表情が一変。脱ぎ掛けた草履を着けなおし「ちょっと馬鹿だけど悪い子じゃないからお願いね。私は朝ご飯の支度をしてくるわ」とまたもや小走りで視界から消えていった。
「あなた、柚木っていうんだ。ユズリハユズキって、面白いというより変だなという印象が勝るね」
さり気なくとても失礼なこと口走りながら、おばあちゃんが台所へと入っていくのを見送った藤アヤは障子を流れるように閉めた後、腰を低くしながらスッと僕に接近し首元に顔面が埋まるくらいの距離でこう囁いた。
「ユズキくん、この町はイカレてる。そして私はこの監獄から抜け出してみせる」
「え……?」
衝撃的なことが二つ。一つ目は彼女がこの町を監獄と表現したこと。二つ目は香水をつけてるわけじゃないだろうに彼女の周囲に甘い香りが漂っていたこと。不意に女の子を感じて不慣れから緊張してしまう。
「あぁ、外モンって本当に何も知らないのね……」
やれやれといった様子でかったるそうに呟き、藤アヤは首元から離れていく。上体を後ろにずらしたその流れで彼女は正座の体勢をとり、一つため息を漏らした後にゆっくり語り始めた。
「まず、わたしはあなたに合わせて町と呼んでるけど、ここに暮らしてる人は花屋町を一つの国だと思ってる。外界からの情報は一切遮断され、独自の掟の下人々は暮らしてるわ」
「それって誰かがこの土地を治めて運営してるってこと?」
「思っていたよりも察しがいいわね。その通り、普通で言うところの町長さんが国のトップとして振舞っている」
「でも、その町長さんは悪い人ってことでもないよね。この町の人はみんな思い思い楽しく暮らしてるように見えたよ」
「なによそれ、やっぱ外モンは呑気にもほどが……」
藤アヤが苦言を呈したその刹那、ピピピピピピと大きな音でスマートフォンのアラームが鳴り始めた。藤アヤは一瞬だけ何が起きたのかわからず呆然としながらも、その1秒後くらいには事の重大さに気づいたようだった。
「きゃあああああああああああ――」
藤アヤは突然奇声をあげてスマートフォンに飛びつきそれを掴んだかと思えば、今度は襟首から服の中に仕舞い仰向けになって叫び続けた。僕は何が起きてるのか全く理解できず、差し当ってはスマートフォンを取り返そうと大の字で叫び声をあげる藤アヤに覆いかぶった。
「お前いきなり何してんだ――」
半分馬乗りの姿勢になり衣服の中から鳴る携帯電話の場所を突き止めようとぺたぺたとボディチェックを始めた頃、アラームも藤アヤもコロッと喚くのを止めた。
「ちょっと、どうしたんだい!」
廊下をズサズサと、小走りで駆け寄ってくるおばあちゃんの足音が聞こえる。ああ、これはまずいと思った時には既に遅く――。
「あんたたち……」
勢いよくスライドさせられた障子からおばあちゃんの姿が現れる。逆を考えてみよう。おばあちゃんからの視点では、つい先ほどまで壊れるくらいに叫び声をあげていた女の子が見知らぬ男に組み敷かれてる画だけが読み取れるはずだ。
「あぁ、いいのセンセ。少し驚いたけど、全然ヤじゃないから」
何を思ったのか、仰向きの状態から顔だけをおばあちゃんの方へ向けた藤アヤは吐息交じりの色づいた声でもって誤解を加速させる。
「違うこれは――」弁明を図り動き出した刹那、口に人差し指を当てられ言葉は遮られた。
「しーっ、余計なことは言わなくていいって。ね?」
とうとう何もわからなくなって、僕は黙を決め込むことで精いっぱいになる。
「つまりお二人さんは……」
修復不可能な誤解を与えてしまった。ただでさえ悪事千里を走るというのに、閉じた地域なら尚更だ。何の気か知らないけど、知りもしない女の子に嵌められて僕の社会性は今終わりを告げた。人間として最低限度の生活なんて欠片も望めなくなってしまった――
「なんだい。アヤ、お前がいきなり声なんかあげるから仰天したじゃないか。全く、柚木くんを怖がらせたらダメでしょう」
「ごめんなさいセンセ。経験が無いとやっぱ少しビックリしちゃうなーって。でももう問題なし! 驚かせてごめん」
「全くもう。柚木くん、アヤは本当に悪い子じゃないんでどうかよろしくお願いします」
「え、ええ……」
「ともかく、これで一安心。ご飯の用意に戻るから仲良くするんだよ」
非を詫びるように一礼した後、おばあちゃんはゆっくりと戸を閉める。またこの町に子供が増えるわいという具合で嬉しそうにニッコリした顔がとても印象的で、心に焼き付いた。
「さて……あーっと、何から話したらいいのかな」
のしかかられた体制のまま藤アヤが気まずそうに口を割る。完全な被害者の身からすればなんでお前がばつの悪そうに振舞っているんだと叱責したくてたまらない。
「そうだな」瞬時に悪知恵が働いた。「お前ってそういう経験ないんだ。なんか意外だ」
いじわるそうに笑顔を作り、あえて今の状況に踏み込む。少しくらい仕返しになればいいんだけど――
「え? はっ」
2、3拍ほど間が空きやっと文意を理解したような藤アヤ。みるみる純情乙女の顔は赤く染まっていき、圧倒的な劣勢から彼女はついに牙をむいた。
「う、うっさい、そういうこと聞いてんじゃないでしょ!」
全く無警戒の胸板にまともな頭突きを食らう。思いのほかの衝撃にその場でうずくまりかけたが、だから近寄るなってと乱暴に右肩を押され、ぐるんと半回転した僕は藤アヤの隣で仰向けの体勢になった。
「やりすぎだよ。お前……」
そんなに怒ることもないだろうとちょっとは不服だったけど、とりあえずは素直に反省してお詫びを入れる。自宅でも学校でも女っ気は全くと言っていいほどなかったから緊張していたが、案外普通に話せる。蓋を開けてみれば過剰に気を遣うこともなかったんだ。鬱陶しいのは据え置きだけど出会えてよかったなと感謝が込み上げた時、彼女の方からまた一歩踏み込んできた。
「あんたは、あんたは恥ずかしくなかったわけ?」
僕の目線からは上体を起こし小さくなった彼女の背中だけが見える。今の藤アヤにはきっと「しおらしい」とか「いじらしい」とかいう言葉がピッタリと当てはまるんだろうけど、それを声にしたらまた怒るだろうと躊躇し口を噤んだ。
「あからさまに女子に慣れてなかったのに、あんな体勢になっても伝わってきたのは動揺と混乱だけで、なんていうか、もっと単純に興奮したりはなかったんだ」
全く質問の要領が得られずポカンとしてしまう。質問の意味は分かるけど意図が全くわからない。そもそも質問なのかどうかが曖昧だ。取り敢えずは疑問文なんだと受け止めて質疑応答を成り立たせてみよう。
「興奮って、全然そんな状況じゃなかった」
「状況ってそんなのは些事でさ……」藤アヤは続ける。「男の人って、胸固いんだね」
目を細めながら正面の女の子は感慨深そうに自分の頭を撫でる。またもや要領は得られない。「運動してるから」というのがおそらく最悪の答えなんだろうけど、それ以上のことはてんでわからない。先ほどと打って変わって会話を紡ぐのがとても難しく感じた。
「俺は、男だからね」
僕の精いっぱいの答えを聞き、当たらずとも遠からずだったのか彼女は気の抜けたようにため息を漏らした。個人的には自信のある解答だっただけに少し残念だ。
藤アヤはガサゴソとブラウスを漁り上半身の何処からか、先刻捕獲したスマートフォンを取り出して僕に見えるよう左手で持ちかざした。
「外部からの文明の持ち込みは厳禁。バレてたらきっとあんたもわたしも殺されてた」
温度の低い声で彼女は淡々と言う。
「この国の知識と技術は町長によって完全に統制されている。この町には君たちの世界から何十年も昔の文明しか持ち込まれていない」
ぽんっと僕のお腹にスマートフォンが投げ込まれた。何をされたのか心配になり適当にボタンを長押ししてみると、いつもと変りなく製造会社のロゴが画面に映し出され携帯電話が起動の準備を始める。どうやら電源を落としただけで、なにも破壊して目覚ましを止めたわけではないようだった。
「さっきは、胸の部分に隠してたんだ。それ」
藤アヤが思い出したかのようにニヤける。
「ああ、道理で見つけられないわけだ。胸は探しづらいよ」
悪意にも気づかず、僕は何の気なしで応答する。
彼女は再度ため息を漏らし、半ば諦めたように言葉を漏らした。
「あんたはホモかよ……」
ホモって、そんなことは一度も考えたことが無い。女っ気が無いってことはその実男っ気に溢れてるということであり、その気があるとしたらとっくに自覚している筈だ。大体今までの会話で僕は何一つ間違ったことを言ってないし、やっぱりおかしいのは彼女の方なんじゃ――
「おふたりさん、ご飯の用意は出来たからね」
障子の向こう側から嫌に気の利いた声音が聞こえてきた。まったくココの人たちはどこまで性に大らかなんだろうか。
「センセ、別にそんなんじゃないし。こんなやつ男ですらない」
勢いよく戸を滑らしおばあちゃんと向かい合わせになった藤アヤは、そう一言だけ言い残しててくてくと台所に向かっていく。何があったんだいというふうな顔をしたおばあちゃんに、僕は心の奥からにじみ出る困惑の表情をあてがうことしかできなかった。
* * *
僕は今12畳1間の空間に寝そべり惰眠を貪っている。
あのアラーム事件の以降溝が修復されることは無く、おばあちゃんが良かれと提供する与太話は全て「別に」「醤油」「ティッシュ」という三種の単語の前に散っていった。気まずい雰囲気の反面食卓は豪勢そのもので白米、わかめと長ねぎの味噌汁を基本に、卵焼き、切り干し大根、里芋と鶏肉の煮物、ほうれん草の胡麻和えときゅうり、なすのぬか漬け、レタスとベーコンの炒め物、小松菜と油揚げの煮浸しと、洗い物の想像をするのが億劫になるくらいのバンケットだった。
苦し紛れに「漬物に煮物にどれをとっても絶品ですね」と褒めてみてもおばあちゃんの反応こそ良かれ、藤アヤの表情は「当たり前でしょ」といったふうで気が晴れるまでにはどうしても時間がかかるように見えた。
朝食を終えた後におばあちゃんは藤アヤに僕を案内巡りに連れていくよう提案したが、「ちょっとやることあるし、色々と学校が始まってからの方が早いでしょ」と理由付けて会話をする隙も見せずにそそくさと帰っていってしまった。
そんなこんなで僕は間借りしてる部屋に戻り、先刻の教訓通りめぼしい携帯電話のアラートを全て切る。電波は一本だけ通ってるように見えたが都会から離れた山の中だからかネットには繋がらず、スマートフォンはその意味をほぼほぼ失っている。
「これが使えないだけで何もすることなくなっちゃうからな」
手のひらに収まるガラクタへじろっと目をやった後、股の間に放り投げた。今日のところはもう不貞寝するしかないかなと手詰まりになったところで一番最初に戻る。
布団の中でゴロゴロと時間の無駄を体に感じ、睡眠と覚醒を繰り返しながら時間の経過をただただ待ってみる。どれくらい時間が経ったかなと先ほど股に投げ飛ばした高機能携帯時計に手を伸ばしてみるが、まだ2時間と経っていなかった。期待外れから画面を消し、今一度どこかに投げ飛ばしてやろうかと思いを巡らせたその時――
テロリン。
オフにしたはずの通知音に心臓が縮み上がる。暗い画面から一転、機能性を取り戻した高機能ガジェットのディスプレイには――
「アヤです。さっきはごめんね。送信されているようなら玄関まで来てください」
信じ難い文字列が並んでいた。
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