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第4話 恋心
ディスプレイに映るのは、電話番号を頼りに送られてきたショートメール。
「アヤです。送信されているようなら玄関まで来てください」
僕は慌ててケータイをポケットに忍ばせ、立ち上がった勢いをそのままに廊下を通り抜けて玄関まで駆ける。しかしそこに立っていたのは下駄箱の整頓やらをしていたおばあちゃんだけ。そんなに焦ってどうしたんだいと目を丸くする家主に「少し散歩してくる」とだけ言い残し、スニーカーに足を突っ込んで屋敷の前庭に飛び出した。
「いない……どこいったんだ」
つま先を地面にトントンと打ち付けながら首の回る範囲を見渡してたところ、そこに女子高生の姿はない。ふと先刻の彼女の姿が脳裏に浮んだ。
「――バレたら殺されてた」
その瞬間、僕は生まれて初めて死というものを意識する。全身の細胞が恐れをなして、身体中が火照りだす。人生を強制終了させられる恐怖なんて、人並みに暮らしていたらそれこそ死ぬまで向き合えないもの。死神が涼風に乗ってそっと頬を撫でるのを感じた。
今、この瞬間、あの子は――
血の海に横たわる女の子のイメージが脳にくっきりと投影される。嫌な妄想ばっかり巡らせてもどうしようもない、と町の全景も禄に把握せぬまま屋敷の大門を走り抜ける。他に出来ることは何もないんだ。死角から声を掛けられたのはその時だった。
「そんな急いで何処に行くのよ」
振り返った先には、門にもたれかかり不思議そうな面持ちをした藤アヤが立っていた。そうか、玄関って普通に考えたら門のことになるのか。早合点を起こした自分の馬鹿を恥じながら、差し当ってはホッとして藤アヤの両肩に手を添えた。
「な、なによいきなり! あんたやっぱり女に飢えて――」
ああ、これは流石に説明不足だ。息を切らしながら、右手を離して屋敷の方を指で差す。
「や、違うよ。玄関って、あっちのことだと思ったんだ。庭を見渡しても見つけられなかったから、メールを打ってるのがバレて、それで誰かに連れていかれたのかと心配したんだ。無事で安心した。よかった。よかった……」
相手が人差し指の示す方角を追ったのを確認した後、僕はまた右手を彼女の肩に添えなおし、前よりも強く力を込める。さっきは「無事で安心した」なんて言ってみたけど、そんなのは正確じゃない。いや、無事を確認できたことはもちろん嬉しかったが、根本的な状況は何一つ変わっていない。先刻の「気づき」から忍び寄る恐怖は現在進行形で僕を蝕み続けている。縋ることのできる誰かが必要だった。
「あんた、さ」
彼女が口を開く。
「手、震えてるよ」
藤アヤは僕の手首を下から緩やかに持ち上げた。両の掌が重なるように動かされた後、男性平均よりも一回り以上は小さいだろう両手が僕のそれを優しく包み込む。まるで傷口をいたわるようで、手の甲を撫でる彼女の親指から落ち着きがなだれ込んでくる気がした。
「わたしがそんなヘマするわけないって」
声を聞くと、安心する。僕は目の前に立つ人を完全に過小評価していた。そばにいるこの女の子はこの恐怖に苛まれながら、内と外の世界の板挟みに苦しみながら人生を歩んできたのだ。
そして彼女は言葉を重ねる。
「今はめちゃくちゃかっこ悪いけど、わたしのことを大真面目に気に掛けてるのが伝わってきて、なんか、すごい嬉しいな」
藤アヤの親指に力が入り、ギュッと握りしめるようにベクトルが変わる。そこで僕は初めて彼女の手の震えに気づいた。
「なんだ、やっぱりお前も……」
強がりながら安心を分け与える小さい手をほどき、今度は僕が支えになる。安らぎは分け合えば分け合うほどに大きくなると気づいた。
「でも、泣きじゃくったり、ただ立ち止まったりは出来ないよ」
藤アヤは身震いながら、ニコッと表情を作る。
「これは、わたしが選んだ道だから。外の世界についての知識なんて、吹けば飛ぶくらいしか無くて、全部を無視して生きることだってできたんだ。でも、わたしはそうしなかった。そして今、私の目の前に君が現れた。今から始まるんだよ、十年越しのわたしの逆襲が」
『自分で選んだ道』というワードに心を打たれた。自分で道を見つけ、選択し、生きる。それだけのことがどれほど難しいかを僕は良く知っている。
「尊敬するよ。藤アヤ」
思わず漏れた心の声、返答は直ちに来た。
「ぷっ。何それ」
藤アヤが噴き出す。
「何がおかしいんだよ。本気で思ってる」
「いやごめん、疑ってるわけじゃなくてさ」
彼女はなおも笑い続ける。
「藤アヤって、私のフルネームだよ。すごい変」
なるほど。四音しかないせいか一切違和感を覚えなかった。
「じゃあ、藤さん?」
「それも変。フジサンって響きがそこら辺の山の名前みたい」
えーっと、じゃあどうしようかと戸惑ってる内に、躊躇われた案が彼女から提示された。
「アヤって呼べばいいよ」
「ええっと、でもいきなり名前は……」
「今更奥手な感じに振舞われてもなあ」
藤アヤ、もといアヤは意地悪そうに僕の顔を覗き込みながら強く重なった僕達の手をかざす。
「やめろってそういうの!」
たまらず恥ずかしくなって手を振り払う。僕もアヤも震慄からは解放され、すっかり落ち着きを取り戻したようだった。
「仲良くしようよ。わたしたちこれからクーデターを起こす戦友なんだからさ。ゆーずきくん」
「……はいはい」
わざとらしいアクセントを右から左に受け流す。おちょくられたのはわかるけど、そこに不快感はなかった。
「あら? 反応が悪いな。ゆずきくんって言い方は不服なのかな? じゃあユズユズって呼んであげようか? 名字と名前からひとユズずつ拝借して――」
「気持ち悪いのでやめて下さい。下の名前でいいです」
アヤはどこかのおじさんと同じく、敬語も遣えるんだあと新しい発見を嬉しそうに突いてくる。そういえば人のことを丸一日ほったらかしにして蓮さんは一体どこで何をしてるんだろう。まあ、いいか。
アヤと会話をしてると心が暖かくなる。明るくて、気丈で、頭が回って、度胸があって、諦めが悪くて、尊敬できる。信頼ができる。
恥ずかしながら今まで誰かに恋心を寄せたことは無かった。中学一年の頃に「好きだよ」「俺もだよ」なんて適当な二つ返事から付き合ったことはあったけど、結局は少し遊ぶだけ。何か月か経ったら自然消滅するのが常で、その後は誰もが元からそこには何もないかのように振舞う。友人間のそんな『恋愛ゴッコ』を眺めてる内に、学生間の色恋は空虚なものなんだと興味を失くしてしまっていた。
そもそも「恋に落ちる」なんてのは超情動的な――例えるならある人を見かけた瞬間に脳天に雷が落ちたような衝撃が走り、背骨がチリチリと焼け付いて肌の表面から放熱が始まるような――心の揺らぎのことだろうし、もしそういうことで間違いないなら一生僕には無縁なんだろうと思っていた。
アヤと一緒にいると、じんわりと心の隙間が埋められていく気がする。落雷みたいな高エネルギーの爆発じゃないけど、そこには月を望んで潮がだんだん満ちていくような安定したバイタリティーの供給を感じる。ああ、この深くてゆっくりと広がっていく敬愛を『恋心』と名付けていいなら、僕は今恋をしているのかも知れない。
* * *
「よし、これで町の説明は全部したかな」
町の外れの外れの牛小屋で、アヤが額を拭いながらひと仕事終えたというふうに息を漏らす。ちょっと気恥ずかしいあの会話の後、気が変わったと言って明日にする予定だった町案内を急遽実施してくれたのだ。改めて畑と牧畜の多種多様すぎるほどの広がりに驚いたが、話によるとこの町の食物は全てこの町で賄っているらしい。どうやら今朝のバンケットも8割は藤家の収穫物とのことで、花屋町は食料自給率文句なしの100%というわけだ。
例のショートメールと外の知識についても教えてもらった。どうやら町の外から毎週伝書鳩に書簡を括り付けて送ってくれる謎の協力者がいるらしい。アヤの所持するスマートフォンもその人から送られたもので、藤家は一家総出でこの事実をひた隠しにしているとのこと。伝書鳩とはまたアナログな手法だが、町の中は全域に渡ってジャミングのようなものが施されており、内外での通信交換は弾かれてしまうことから最善手らしい。事実、交換役の鳩は驚くほど有能で、一通も届け漏れを起こしたことはないと言う。それだけ正確ならたしかに無問題なんだろう。
「色々聞きすぎちゃったかもな」
僕は情報の整理に自信が持てなくなって後ろ頭を掻く。そうするとアヤは何を言ってるのよといった様子で僕に目をやり、「これから伝えることが一番重要よ」と呟いて距離を詰めてきた。
「いい? 町長の名前はミセバヤ。漢字で言うと――」
「――ひいふうみいの三に浅瀬の瀬、早朝の早」
アヤが信じられないといった様子で口を開ける。いや、信じられないのはこっちの方だ。
「三瀬早って蓮さんのことか……?」
「『蓮さん』って……あんた知り合いなの?」
アヤはその表情にさらに驚嘆を上塗りするが、唸りたいのはこちらの方だ。田舎町は一人の人間によって独裁国家として機能し、僕はその人間に町の仕組みを聞かされず招き入れられた。何一つとして点は繋がらないが、僕は蓮さんは悪い人じゃないと判断した。そしてこのことには何の誤りも無いんだと運命的に感じている。いや待てよ。運命的って一体何なんだ。取り敢えず現段階で共有できる情報は一つもない。不必要にアヤを危険に巻き込む必要はないはずだ。
「いや、初日に挨拶したくらいだ。名前を自慢げに紹介するから覚えちゃったんだ」
これが最適解。ああ、あのおじさんは何故今日一日僕をほったらかしているんだろうと再度腹が立つ。
「なあんだ。変に驚いちゃったよ」
「思わせぶりでごめん」
何もないならそれに越したことは無いって、と笑顔を浮かべるアヤ。なにぶん人を騙し慣れていないのでこちらは胃を揉まれる気分だ。これであらかた話し終わったしもう帰ろうかと提案するアヤに僕は二つ返事で同意した。
数十分の帰路の途中でも、僕らは会話を交わす。
「朝はごめん。いきなりホモなんて言って……わたし最低だ」
アヤが自己嫌悪に陥った様子で話し始めた。
「そんなの気にしてないって――」
「気にしてないわけない! 男の人にそんなことを言うの、人間として最低だよ」
明らかな過剰反応に、正直どう応対したらいいのかわからない。
「わたし同級生の中で一番そういうのに疎くて、いつも友達とセンセからは盛んな話ばっか聞いてたから、男はいつでもそういうのを求めてる生き物なんだと勘違いしてた」
それから、でもやっぱりホモってのは人として価値が無いと貶すのと同じだよ、とアヤは堂々巡りに同じことを繰り返し始めたので、明日の時間割やら何やらを尋ねて煙に巻いた。価値観の擦り合わせをしないと、このままではやりづらい。そう思うのと同時に、やはりこの町の性のシステムについて疑問符が残った。
「じゃ、明日また学校でね!」
屋敷へと繋がる三叉路でアヤは「わたしの家はあっちだから」と指で差しつつ、流れでその手を穏やかに広げ揺らしながら別れの挨拶をする。そういえば明日からはまた学校のある日々が始まるんだと頭の中にメモを残して「今日はありがとう」と手を振り返す。
アヤと別れてすぐ、思考は蓮さんと町の関係にシフトした。何がどう結びついているのか皆目見当もつかない。思いを巡らせながら庭の手入れをするおばあちゃんにただいまと声を掛ける。返しで何か質問されたような気がしたけど、頭に入って来なかったので「うーん」と曖昧な返事でごまかした。
玄関で靴をある程度揃えて脱ぎ、自室に直行。その間も全ては町のカラクリを解き明かすため。自室にたどり着いた途端にどっと押し寄せた一日分の疲れをそのままに、考えて、考えて、考えるが、どうしても蓮さんが悪い人には思えない。
どうにも埒が明かないので一旦考えを放棄してみる。明日から新しい生活がスタートするんだ。少しだけワクワクを蓄えながら、いつの間にか僕は眠りに落ちていた。
* * *
朝。アラームは無かったけど別段寝坊をすることもなく起床し、茶の間に置いてあった昨日の夕食の残りを用意して食べ、シャワーに始まる身だしなみもろもろをしっかり整えてなお、三十分余裕を持って家を出た。
大したハプニングも無く職員室までたどり着く。高校一年生の担当教師のデスクまでとことこ歩いてると、そこには下宿先のおばあちゃんが座っていた。
「やっと来たかい。これ、学級名簿だよ。教室は一階だけ上がって右に曲がった突き当りだよ」
「いやーそれにしてもおばあちゃんが現職教師だとは思わなかったな」
「なんでだい? アヤは私のことをセンセと呼んでただろう。後学校でおばあちゃんは厳禁。先生と呼びなさい」
そういえばそうだ。現実世界にも伏線は潜んでるんだなと無駄に納得して名簿に目を通す。
見たところ、高校一年生は全一クラスで18人。思ってたよりも多い人数に驚き、そういえば総人口はどれくらいなんだろう、と推論しようとしたがまだまだ判定素材が少ないので即刻諦めた。
校舎をひと通り散歩し、職員室で暇つぶしにもならぬ方法で暇をつぶすこと三十分、ついにホームルームを告げるチャイムが鳴った。こんなことなら家で三十分ダラダラしとくんだったな、いやでも屋敷にいたところで特にすることもなかったか、と自分で自分を反駁しながらおばあちゃんの後ろを付いて廊下を歩く。不思議と新しい環境に対しての不安感は一切ない。
ここで待ってて、と先におばあちゃんが教室に入る。いつも転入生を受け入れる側だったからこっち側の風景は新鮮だ。それじゃあ転校生をしょうかいします、とドアの向こうで話すのが聞こえてくる。「男―? 女―? イケメンだったらどうする?」と好き放題にハードルを上げる生徒と、それを野放しにしている先生に少しヤキモキしながら自己紹介のプランを練る。
程なくして先生が僕を呼びに来た。高校生一年生の無垢な反応に傷つけられないよう、生徒席には目を向けずに教壇に立つ。
「イケメーン!」「いや、カッコよくはないだろう」「ひょっとしたらブスかも」「でも優しそう!」「ああいうタイプに限って裏ではヤリまくってたり……」「汚いこと言わないで!」「でも体育系だよね」
ちょっとくらいは準備をしてたけど、予想を反して遠慮のない見積もりに胃が痛くなる。人の気も知らずに好き放題言ってくれるなよ……
「やっほ」
横5×縦4に並んだ机の左奥、アヤが敬礼をするふるうに挨拶をする。ちょっと気分が落ち着いた。また借りができちゃったな。
「僕の名前は杠葉柚木 。趣味は、運動することかな」
出来るだけ無難に自己紹介を済ます。そのものズバリ「無難だな!」とガヤを飛ばす人もいたけれど、しーんと静まり返るよりは幾倍もマシだ。
なんだかこの学校でもうまくやっていけそうだと、クラスメートの顔を眺めてみる。左奥から藤アヤ、地味系、野球部系、そして――
右奥の席に座し、僕に何の興味も寄せず窓を眺める薄味の顔をした男。その人を見かけたその瞬間、脳天を雷が貫いたような衝撃が走り、背骨の全てがジリジリと焦げ付いて、肌の表面の水分が蒸発していくのを感じる。その時僕は悟った。
ああ、この感情には既に名前が付いている。「一目惚れ」だ。
僕は、男に恋をしていた。
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