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第5話 牛

 時が止まった気がした。  その人は右の手で頬杖をつき瞳に何を映すでもなく、窓から差し込む陽だまりの中でただ外を眺めている。特別に堀が深くて目鼻立ちがくっきりしているということは無い。むしろ彼からはYシャツの半袖から色白で細身の腕を生やしどことなく虚ろな印象を受けるくらいだった。  ふと彼は頬杖をついたまま僕の方に目をずらし、一方通行のつもりで構築した視線上に割り込んでくる。がっちりと合ったお互いの目線に「まずい」と僕は咄嗟に顔を逸らした。いや「目が合っただけだから何もまずくはないのか」と一人で頬を熱くしてるのが恥ずかしくなる。今度は彼の視線上に僕が割り込んでやるんだ。そう腹を決めて顔を上げたその時――  彼はニコッと優しく微笑みかけてきた。  耳が先っぽまでが真っ赤に染まっていくのを感じる。スポイトで水を垂らしたらたちまちジュウと音を立てて気化していくだろう。僕は今完全に「やられて」いる 「それじゃあ、席について。ユズキくんの席は奥の空いてるところだからね」  僕の背中を押して先生が着席するよう促す。先生が指し示した机の位置は―― 「なによさっきから、顔真っ赤にして具合でも悪いの?」  藤アヤの隣。アイツのそばじゃなくてよかった。ちょっと前から乱されっぱなしの僕のバイオリズムに勘の鋭い彼女はとっくに気づいていた。 「あんた、さっきから挙動不審よ」 「いや、何でもないよ。何もないんだ」 「そう。何でもないんだったら別にいいけど」  そう言うとアヤは素直に先生の方へ向き直したが、その表情からは別にいいなんて全く思ってない様子が伺える。これは後で根堀り葉堀り詰問されるなと覚悟を決めて、僕は先刻の火照りは何かのエラーなんだと気に掛けないことにした。今ならまだ無かったことにだってできる。 「じゃあ農耕分けのくじ引きをしますから、男女どっちが先に引くか決めてください」 「ノウコウ分け」という馴染みのない単語に眉間が顰む。新学期の始まりに色々とくじ引きをするのは場所を選ばず恒例で、盛り上がるイベントだってことには間違いないんだけど肝心の何を決めるのかが分からない。二、三候補を浮かべてる内に右側から肩をツンツンと突かれた。 「昨日説明した通り、高一より上の世代は農作業をしなきゃいけないんだよ。農作業って言っても畑仕事だけじゃなくて、牛や鶏のお世話をしたりも勿論含まれてる。それで自分たちの仕事を振り分けるのが農耕分け。席替えなんかより百倍は大事だよ」  そんな説明をしてくれたことはすっかり忘れてしまっていたがとりあえず納得する。食料自給率100%という無理難題は学生の無賃金労働という形で達成されてるってことだ。  ここで普通は「そんなのやってられるか」と反発するんだろうけど殊の外敵愾心は覚えず、むしろ新しい経験を楽しみに待つ自分がいた。 「そうか。アヤと同じグループになれたらいいな」 「え?」  予想外の反応に不意を突かれたのかアヤは頬を紅潮させたが、それでもなお平静を装い心の機微を隠そうとする。 「ま、まあ私は要領いいから、そりゃ一緒に組んだらお仕事も早く進むことには間違いないけど、さ」 「そんなんじゃないって。普通にお前と一緒だと嬉しいよ」 「それはまあ、わたしもだけど……」  僕は「素直になれよ」と追撃を試みたが、それを受けた彼女は「うっさい!」と吐き捨て赤い顔のままそっぽを向いてしまった。多少はからかいの意味もあったが一緒に居たいというのは紛れもなく本心だ。 「やったッッ!」「くそ!」  教室の前方が湧き立ち女子群がハイタッチをする。男女の代表同士の厳正なるじゃんけんの結果女子から先にくじを引くことに決まったようだった。  アヤは「じゃ、引いてくるよ」と席を立ち、教卓の上にいつの間にか設置されたおみくじボックスに向かって歩きだす。いかにもお手製な箱から紙を取り出して確認すると直ぐに可もなく不可もなくといった様子で隣に戻ってきた。 「白菜とキャベツだわ……前期はレタスと生姜だったし、代り映えしないのはかなり辛いな」  つまらなそうにボヤいた彼女は、こちらに目を向けるでもなくそのまま黒板をじっと見る。黒板には7つのカテゴリーがあり、一つにつき三人組が基本的な骨組みで「牛」という枠だけ二人組。女子だけで既に決まったグループがある一方、牛という欄には誰の名前もまだ書かれていない。  「良かったね」とか「セーフ」という歓声が女子の方から聞こえてくるのとは反対に、男子連中はまさしくお葬式といった様子で各々が励ましあっている。彼らの懸念の先は牛にあるようだけど、牧畜はそこまで重労働なんだろうか。 「じゃあ次は男子! ウダウダしてないでちゃっちゃと引いちゃいなさい」  おばあちゃんからの催促に対し男子群がやるせなさそうにため息を漏らすなか、何処からか一つの案が提示された。 「杠葉(ゆずりは)が最初に引くってのはどうよ! ここはひとつ運試しってことでさ」  かなり突拍子もない提案だったが教室の前方では「いいね」「楽しみ!」と既に満場一致の雰囲気が出来上がっている。 「ああなったらもう仕方ないわよ」  完全に他人事だと思って頬杖をつきながら、アヤは引き続きつまんなそうに呟いた。もしその牛とやらを引き当てたらどうしてくれるんだ。 「それに牛を引いたらあんた人気者になれるよ。この局面で引き当てたら私だって、あんたはモッテルんだと見直すわ」 「いつの間に見放されていたんだ……」 「軽口を叩く余裕があるならきっと大丈夫よ。牛を引き当ててきなさい」  そう言ってアヤは軽く笑いながらエールかどうかも分からない励ましをかけてくるが、実際のことを考えるとかなりしんどい。  そもそもこのパターンに大丈夫なんてものは存在するのか。牛を引いたら地獄と思われる作業が待っているし、引けなかったらそれはそれで「つまらない奴」の烙印を押されてしまうし、何より僕には選択権なんてないわけで……  期待してるだの男をみせろだの騒々しくガヤが飛ぶところをずんずん進んでいき投票箱に手を突っ込む。どれが良いかなとかき混ぜて適当に一枚紙きれをつまんで持ち上げる。そうすると親指と人差し指で捉えたものとは別に、中指と薬指に引っかかって持ち上がってきた紙切れがあった。 「杠葉二つやるのかよ!」「男だなお前!」と細かく行動の隙を付いてくる野次馬に「そんなん無理だって」と軽く相槌を打ちながら、図らずとも付いてきたくじを箱に戻そうとする。しかしその直前で自ら付いてきた紙に少し愛着が湧いて結局は最初に掴んだ方を箱に戻した。  二つ折りになっているくじを開く。そこにあった文字は―― 「牛だ……」  僕が呟くのと同時に教室中が沸き立つ。「やっぱりお前はモッテルよ」という褒め言葉を口にしながら、お祭りでも始まったかの様な狂騒具合で「残る牛は一つだ!」と箱に殺到する男共を横目に僕は自席へと引き返した。 「牛はさ、お世話をしたら最後に食べちゃうんだ。それが辛くてみんなは外れ扱いしてる。みんな身近に死を感じるのが怖いんだよ」  先ほどよりもより一層面白くない様子でアヤはぼやいた。教室に流れるこの空気が嫌いらしい。 「じゃあ仕事内容はそこまで過酷でもないんだ」  地獄の内に希望を見出そうと発想を変えてみる。牛を世話して、食べる。辛いだろうけどきっと良い経験になるだろう。そう考え、過剰に落胆するのを辞めた矢先のこと。 「ああ、もちろん仕事も辛いよ。牛担当の肌にはウンコの臭いが染みついて取れなくなるって有名」 「なんだ、やっぱり希望は無いのかよ……」  アヤは肩を落とす僕に目をやると、「他にいいことあるって」と無責任ながら励ましをかけてくれた。「いいこと」に含まれるであろう楽しい農業体験も、彼女との共同作業も、その芽を摘まれた後だというのに。  彼女と軽い会話を交わしている合間に農耕分けは既に終わっているようだった。 「それじゃあこれが夏季の振り分けですから、作業の前にお互いに確認しておくように」  両手でメガホンを作って、クラス全体に呼びかける先生。お互いを確認しろって言われても男子の名前なんて誰ひとり知らないわけで、まあ一応名前だけでも憶えておくか、といい加減に黒板に目をやる。そこにあった名前はあまりにも馴染み深いあの文字。  牛――杠葉・三瀬早。  高いところから落ちて内臓がヒュンとするような驚き。アヤは前の席の女の子と喋っておりこの事実に気づいていない。ひぃふぅみぃの三に浅瀬の瀬に早朝の早、恐らくは蓮さんの息子。そしてこの町を支配する町長の息子。急に嫌な予感が過り、同じ列の左隅の机に居るアイツに意識を注ぐ―― 「よろしく。ユズキ」  そこにあったのは微かな笑みを浮かべる薄い顔。不覚にもまた僕の心臓はドキリと大きく波打つ。  この昂ぶりはエラーなんかじゃない。無かったことになんて絶対に出来ないんだと僕は気づいてしまった。 * * * 「それじゃあ、今日はこれで学校は終わりです。この後は各自下校した後、11時から各々の持ち場で一日目の作業をしてもらうのでそのつもりでいること。実際の作業要綱については、それぞれの班を管轄している大人に尋ねてください。それじゃあ一旦解散」  ホームルームが始まったのが8時半頃、そして解散を言い渡されたのはその僅か15分後のことだった。「こんなことなら登校させるなよ」と始業式のテンプレートのような生徒のツッコミは勿論あったが、クラスメートは誰一人居残る素振りも見せずに帰っていった。  校長先生の挨拶や裏紙に使われるのがせいぜいのプリント配布などの無意味な行事は簡素化されていて、あまりの合理性に肩透かしを食らってしまう。アヤは畑仕事の前に友達の家で遊ぶらしくて、一番遅くに教室を出た僕は一人ぼっちで帰路に就いているところだ。本当は色々と作戦会議をしたかったけど飽くまでも転入一日目という立場から彼女の友達を退かすことは到底できなかった 「よろしく、ユズキ」  何も考えないでいると直ぐに彼の顔が頭に浮かび体を熱くしてしまう。自分は一体どうしてしまったんだろう。  三瀬早の顔は前も言った通りわかりやすいイケメンってわけじゃないし、声だって高くも低くも無くひたすらソフトで男らしくない。そもそも僕は同性愛者じゃない。と言っても男同士で愛し合うことに嫌悪感を覚えるわけじゃなくて、むしろ性別の壁を飛び越えた時に本当の愛情が垣間見えるんじゃないかと常々思っている。  少なくとも今まで生きてきた内でそういうトリガーを引かれることは無かったし、肉体上での繋がりなんて結局は希薄なもので、愛情や恋慕っていうのは尊敬と思慕を基盤とした「心に深く広がっていくもの」なんだって、なんなら昨日気づいたばかりだ。一目惚れなんて、僕が一番軽蔑していたもの。でも、これは。  知恵熱から来るのか羞恥心から来るのか、僕はあまりの顔の熱にボーッとしてしまう。 「もう、誰か全部教えてくれないかな」  自分自身の難儀な性格に疲れて初めてようやく道路を見ながら歩くのをやめる。その時視界に飛び込んできたのは、蓮さんに出会ったときに見た僕を誘う黄色い花びら。 「お前が教えてくれるのか」  ただただ僕を誘うように踊るだけで、花弁は何も喋らない。 「今度は何処に連れていくつもりなんだ」  ふわふわと浮き、風に乗って空を蛇行しながら飛ぶ黄色い花びら。僕はそれを追いかけ舗道を外れて草木の育つ場所を進んでいく。  雑草の背丈が膝ほどの道なき道を歩き、山に入り、木々がひしめく森の中を分け入り、ひたすら前進していったその先で僕は花びらを見失ってしまった。 「うわあ、変なとこに来ちゃったな」  道標を失って初めて僕は正気に戻る。制服をかなり汚してしまったことに気づきハアとため息を漏らしたその時―― 「何してんの? ココは山の中だよ」  後ろから声を掛けられ反射的に振り返る。  その先で立っていたのは微笑みを浮かべ、汚れ一つない制服を身に纏った三瀬早だった。

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