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「本当にここ、キス魔が多いんだな」  ポケットに無造作に突っ込んでいたためくしゃくしゃになった地図を見ながら、屋上に繋がる階段へ向かって廊下を歩く。  先ほど与えられた唇の感触は未だに消えない。教師がほいほいと生徒に手を出すから、生徒同士でも貞操観念が緩くなるのだと思う。  まあ、そんな世界ももう終わりか。もっと色々したかったが、望むだけ無駄だ。化け物に、望むという権利はないのだから。  Eクラスよりさらに賑やかな教室の横を通りすぎる。扉を閉めきってもなお、廊下にまで響いてきているほどだ。自分が心の奥底で求め続けた日常だった。  教室が連なるエリアから離れれば、廊下は途端に静まり返る。屋上に続く階段も人一人おらず、静かに階段を昇る俺の靴音がやけに大きく響いた。  あまり痛くなければいいんだが。  そんなことを思いながら、辿り着いた屋上の扉を開け放った。階段に吹き込む初夏の暖かい風が俺の頬を優しく撫でる。  扉の向こうに足を踏み入れ、ゆっくりと上を見た。空が近い。ここからならば、空に手が届く気さえする。なんの曇りもない真っ青な空に。  だが、今からするのは逆の行為。空から離れる行為。  皮肉だ。  空を望めば、地が手に入り、日常を望めば、非日常が手に入る。神がもしいるなら、そいつは相当な捻くれ者だろう。  屋上をぐるっと囲むフェンスに近付き、右手を掛ける。多少高いが、よじ登れないこともない。殺しをしていた時代は、三階の窓から侵入したこともある。それに比べれば、楽な方だ。  眼前の障害物の向こうへ行くために、よじ登ろうとフェンスに左手も掛けたときだった。 「何をしている」  重低音の声が背後から問いかけてきた。  先に誰か居たのか。自ら命を絶つ瞬間は見せない方がいいだろう。トラウマにでもなってしまったら、死んでさえなお迷惑をかけることになる。  ここから出ていったほうがいい、そうその声の主に言おうと振り返る。 「すまないが──っ!」  目に飛び込んできた赤で、続きの言葉は雲散霧消した。同時に、体内の奥底から嬉々として化け物が這いずり出てくる。  そこに居たのは、食堂で出会った赤髪だった。花咲たちの話によれば、生徒会もどきに気に入られている、俺を除いてたった一人のSクラスの生徒。  そして、俺の殺人衝動の引き金に匹敵する者。

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