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 屋上から一番近いトイレまで移動して、戸田はふー、と息を吐きながら俺の腕を掴んでいた手を離した。逃げるのを優先して下半身は一糸纏わぬ姿で階段や廊下を走っていたのだが、まだ授業中だったのが幸いして、誰ともすれ違うことはなかった。こんな姿を誰かに見られていたら、今すぐ窓から飛び下りるところだった。  廊下から聞こえるチャイムの音と同時に、廊下が騒がしくなる。誰かが入ってきたときのために、個室に半分身体を突っ込んだ。 「大丈夫? 突っ込まれなかった?」 「ぎりぎり間に合った、恩に着る」 「良かった良かった。まだタオル持ってるから、ちゃーんと拭いてから穿いてね」  そう言って、戸田が新しいタオルを差し出した。なぜそんなにタオルを持ち歩いているのか。更にそれだけではない違和感も戸田から感じて、内心首を傾げながらそれを受け取り、完全に萎えた俺自身を拭く。先走りが垂れていた秘孔も拭いて、下着とズボンを穿いた。 「ねえ、聖ちゃん」 「ん?」 「その首、どうしたの? あいつにやられた?」  戸田の指摘に、剥ぎ取られたネックウォーマーを屋上に忘れてきたことに気づく。視線を泳がせながら、余計なことを言わないように後者の質問にだけ答えた。 「いや……あいつは関係ない」 「ふーん……あんまり危ないことしちゃだめだよ」  なにか言いたげな表情の戸田から思わず目を逸らすと、戸田はそう告げて言葉を切った。聞きたい気持ちはあるのだろうが、俺の様子を見て止めたのだろう。気を遣わせてしまったことに、申し訳なくなった。 「……すまん、助かった。タオルは……洗って返す」 「いいよ別にー。そのタオルで抜いちゃうからどうせ汚れるしー」 「……絶対洗って返す」 「怒らないで? ね?」  睨み付ける俺を笑いながら窘める戸田。そこで先程から感じていた違和感の正体に気付く。戸田はマスクも何も着けていない。タオルで塞いでいたのかとも思ったが、屋上では俺の顔に押し付けながら手首に巻かれたネクタイを解いていたから、その時は塞ぐことはできないはずだ。なのに咳き込みもせず平然としている。 「ん? もしかして催涙ガスもろに食らってるはずなのにぴんぴんしてるのが気に食わない?」 「気に食わないっていうか、どうして……」  あっさり心の中を読まれたことはスルーして疑問をぶつければ、戸田はまるでさも当たり前かのようにこう言った。 「ああ、ガスマスク付けてたから」 「は? どこにあるんだ」 「ここ」  そう言って指したのは、戸田自身の顔。いや、どうみても生身じゃないか。 「馬鹿にするなよ」 「馬鹿にしてないって。ほら」 「っ!?」  指を引っ掛けた顎の下から、べり、と戸田の顔が額の方まで剥がれていく。と思ったら、その下から全く同じ顔が姿を表した。  な、こいつ化け物か!? 「これね、俺の姉貴が作った俺専用ガスマスクなの。よくできてるでしょー! 常備してるんだよー」  顔の抜け殻(?)を摘まんで左右に軽く振りなが ら、得意気に胸を張って戸田が言った。ガスマスク常備なんてフレーズを人生で聞くことがあるとは思わなかった。というより、お姉さんの腕に感心する。 「姉貴はね、特殊メイクの勉強してて、その練習がてらいろんな顔のガスマスク作っては俺にくれるんだよねー」 「何でガスマスクなんだ?」 「一番使い道があるかららしいよ? まあ重宝させてもらってますしね」  いたずらっ子のように、にししっ、と戸田が笑う。

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