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第三章 暗闇からの生還

「は、なさき」  もう一度花咲の名前を口にすると、今度は掠れつつも言葉として聞き取れる程度の声が出た。音を伴った呼びかけは今度こそ花咲の睡眠を終結させるには十分だったようで、もぞもぞと動きながら、んー、と呻き声を上げる。目を擦りながら起き上がって、ぼーっとした顔で俺を見る花咲の目の下には、くっきりと隈ができていた。  半分ほどしか開いていない目で、暫く俺の顔を見て、花咲は糸が切れたようにまたぼふっとベッドに頭を落とした。  なんだ、無反応じゃないか。  と思ったら、目にも止まらぬ速さでガバッと起き上がった。 「藤原君!?」  今まで見たことのないくらい大きく見開いた花咲の目が、包帯だらけの俺の姿を映す。みるみるうちその目に涙が溜まって、目の渕から雫が溢れ出した瞬間、花咲は堰を切ったように大声で泣き出した。それはもう、うわんうわんと号泣で。その声を聞きつけて駆けつけてきた看護師は、俺の姿を見て酷く驚いたあと、心底安堵した表情を見せ、担当医らしい医師を呼んできた。医師から簡単な質問をされ、それが終わるとまだ泣き止まない花咲と二人きりになる。  花咲の泣きっぷりが珍しかったのか、去り際に看護師に、「弟さん、お兄さんのこと本当に好きなんですね」なんて言われてしまった。  俺はいつから花咲の兄貴になったんだろうか。  暫くして花咲がやっと泣き止んだ頃には、俺も全身に感じる痛みに慣れ出していて、体はまだ動かせないものの、スムーズに会話できるようになっていた。  花咲が言うには、俺は二週間ずっと目を覚まさなかったらしい。確かに、窓から見える木々には真っ青な葉が沢山ついていて、部屋に入ってくる風も以前感じていたよりかなり暖かい。医者からは、良くて植物人間、悪ければ死を覚悟してくださいと言われたようだ。俺を見た医師が、ポツリと奇跡だ、と溢していた理由が分かった気がする。  顔に似合わず豪快に鼻水をかんだ後、花咲は眉をハの字にしながら鼻声で言った。 「守れなくて、ごめんなさい」  何のことで謝られているのか分からず、目をぱちくりさせていると、花咲は目を伏せて言葉を続ける。 「僕が、ちゃんとあのSクラスの人から藤原君を庇ってれば、藤原君があの人を見ることもなくて、……飛び降りる、ことも……」  言葉尻が窄んでいく。そうか、花咲はあの赤髪が俺の引き金になるのを知っていたのか。だから、教室で咄嗟に俺を庇って、赤髪が見えないようにしたのだ。気付いたのは食堂の時か、それとも、俺のことを調べる際に血の色に反応することも知ったのか。どちらにせよ、自分に危険が及ぶことも省みず、身を呈して守ろうとしてくれたことに、胸の奥から熱いものが湧き出してくる。 「……花咲、ちょっと顔を近づけてくれないか」  若干震える声を張ってそう言えば、花咲は首を傾げつつ素直に顔を俺の方へ近づけてくる。それでもおずおずといった感じだったので、もっと近づくように伝え、花咲と俺の額がくっつくまでそれを続ける。 「え、と……」  困惑する花咲に、俺はゆっくりと言葉を吐き出した。 「ありがとう」  伝えたい思いは沢山あった。だが、全てを伝えきるにはどれだけかかるか分からなかった。だから、一番伝えたい等身大のその言葉を、花咲に受け取ってほしかった。  顔を近づけているお陰か、やっと治まったはずの涙が、再び花咲の瞳を輝かせ始めるのが見えた。 「体が動いたら、今度は抱き締めさせてくれよ」  返事代わりに花咲の目蓋が閉じて、その長い睫毛を濡らしながら水滴が俺の頬に滴る。温かいその涙に、花咲の優しさが詰まっていた。  

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