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 花咲の目から雫が落ちなくなったのを見計らって、「もういいぞ」と花咲に告げた。ずっと腰を曲げた体勢でいたからか、俺の額から顔を離した瞬間、花咲が呻き声をあげて顔をくしゃ、と歪ませ、腰を押さえ始める。 「いった……!」  少し顔が離れた状態で固まる花咲に苦笑を浮かべれば、恨めしそうな目で見られてしまった。 「藤原君のせいなのに……」 「ちょっとは体鍛えた方がいいんじゃないか?」 「あっ、そういうこと言うんだ。ふーん……藤原君でえっちな妄想いっぱいするからね」  よく分からない宣言をされて困惑の表情を浮かべる俺を見て、花咲はしたり顔で鼻を鳴らす。腰を押さえ体をくの字に曲げたままの姿勢でそんなことをされても、笑いしか湧いてこないのだが、自身の体の状態を考えるとその笑いさえも死に等しいので、必死に堪えた。  ぎぎぎ、と錆び付いたブリキのおもちゃのようにぎこちなく腰を元の位置まで戻した花咲は、ふう、と深い息を吐く。 「……また、藤原君と話せるなんて、夢みたい」 「……すまない、心配かけたな」  申し訳なさが募り、花咲を見ることができず目を伏せてそう言うと、ふふっ、と笑い声がした。 「僕、藤原君に出会ってから、ずっと君を心配してる気がする」  穏やかで、温かくて、俺を優しく包み込むような声。視線を上げれば、嬉しそうに微笑む花咲と目が合う。その笑みにつられて、俺の頬も思わず緩んだ。  その後、思い出したようにあっ、と声をあげて、花咲が席を立った。神沢先生に、もし俺が目を覚ましたら連絡するよう言われていたらしい。  一人きりになった病室で、先程より幾分か赤くなった景色を眺めながら考える。  闇の中で聞いたあの声は、確かにどこかで聞いたことのあるものだった。しかし、それが誰なのか、今でも思い出せない。まるで、その記憶だけ黒く塗りつぶされているような状態だ。  思い出したくないのか、それとも思い出せないようにされているのか。  その理由も、分からない。  コンコン、と病室の扉が軽く叩かれ、短く返事をすれば連絡を終えたらしい花咲が入ってくる。 「明日、一君も来るって」 「そうか。一発ぐらいは覚悟しないといけないな」 「え!? い、一君と言えど、さすがにそこまで鬼じゃないと思うよ!? ……多分」  何気無く言った俺の言葉に、花咲が驚いたように慌てて手を左右に振り、ぴた、と手を止めて最後の言葉を呟いた。無意識なのかわざとなのか、毎度毎度神沢先生の鬼畜っぷりを露にしていく花咲に、思わず笑ってしまいそうになる。すんでのところで笑いを噛み殺し、少し冷たくなった風を運んでくる窓に視線を向けて、ぽつりと呟いた。 「……約束破るところだったからな」 「ど、どんな約束してたの……?」  俺の顔色を伺いながら、花咲が問い掛けてくる。不安そうに揺れる目が、俺を見つめる。 「生きること、だ」  眉を下に、口角を上に動かせば、花咲の目がまた潤みを伴って輝き出した。咄嗟に天井を見上げて、ぱたぱたと目の辺りを手で扇ぐ花咲。泣いてないからね! と声に出した言葉は、俺にというより、自分に言い聞かせているように思える。流石に泣きすぎだと自分を律しているようだ。 「あー! そろそろ時間だ! 今日は帰るね!」  未だに顔を上に向けたまま壁にかかった時計を見たのか、わざとらしく大声でそう言うと、花咲はやっと俺の方に顔を戻す。その拍子に零れ落ちた雫の行方を目で追えば、花咲は「これは汗、汗だから!」と弁明する。  別にそこまで気にしなくてもいいと思うんだが。

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