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 慌ただしく帰る準備を始めた花咲をぼー、と眺めていると、俺の視線に気がついたのか、鞄に物を突っ込む手を止めて、花咲は首を左に少し傾けた。 「どうしたの?」 「いや……」  上の空で返事をすれば、花咲は二、三回瞬きをして、また片付けに戻る。その頬に未だ残る涙の筋。いつまで、俺のためにその綺麗な涙を落としてくれるのだろうか。  その後も相変わらず俺は花咲を見ていたが、落ち着かない様子はあれど、花咲が何かを言ってくることはなかった。  さて、と鞄のファスナーを締めて、花咲が立ち上がる。 「ほんとはもっと居たいけど……」 「ああ、ありがとな」 「ありがとうはこっちの台詞だよ」  花咲はそう言って、さっき俺が指示したように、俺の額に自分のそれをくっつけて目を瞑る。 「生きてくれて、ありがとう」  一つ一つに思いを込めるようにゆっくりと紡がれた言葉が、額を通して俺に入り込み、胸辺りに温かさを伴ってじんわりと広がった。俺も、花咲に倣って少しだけ目を瞑る。何秒か後に開いた目には、まだ目を閉じたままの花咲の顔が映っている。 「よし、じゃあ帰るね!」  俺が目を開けて数秒後。漸く目蓋を押し上げながら顔を離した花咲が、快活な笑顔と声を俺に向けた。 「またな」  短く言えば、花咲は「また明日!」と満面の笑みで手を振って病室を後にした。  また俺だけになった病室。赤から黒に変わった外の色が、あの闇を思い出させる。虫の鳴き声すら聞こえない静けさによって生み出された寂寥感が、俺の周りの空気の温度を下げていく。  先程までここにあった笑顔を思い出せば、ちり、と胸が痛んだ。これが、寂しいという感覚なのかもしれない。  暫くして、花咲を宥めてくれていた看護師が、病室に入ってきた。カーテンを揺らめかせていた風を窓で遮って、何かあったらこれを押してください、と俺の手にボタンの付いた装置を握らせる。去り際に会釈をする看護師に、同じように会釈をして、俺と外界とを隔てるカーテンに目を向ける。あの向こうに行けるのは、いつになるだろうか。  照明が落とされ、扉が閉まる音が耳に入ると、顔だけとはいえ久しぶりに動いたからか、次第に目蓋が落ちてくる。人間としての正常な欲求に抗わず再び暗闇に戻るとき、誰かの笑い声が聞こえたような気がした。

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