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第四章 夏の学園

 六月上旬。一ヶ月ぶりに再開された学生生活は、特筆すべきこともなく、ゆるやかに過ぎていった。赤髪はあれから姿を見せず、俺自身も瀕死の状態にまで陥ったのが影響したのか、醜い欲求はひっそりと息を潜めていた。これだけ長い間本能が暴れ出さないのは初めてで、七月に入る頃にはあの燃えるような衝動は綺麗さっぱり俺の記憶から消え去ってしまった。  学園をぐるりと囲むように群生している木々から発されるニイニイゼミの大合唱が、生活を彩るBGMのようになって少し経った頃。世間では時期的にもうそろそろ夏休みに入るのだが、この学校では夏休みはお盆付近の一週間だけらしい。  ただ、先週まで生徒たちを苦しめていた定期考査後は、八月後半に行われる雉学祭まで授業はあっても殆ど自由時間なのだそうだ。この自由時間を使って、雉学祭の準備をするらしい。  また、大学進学のために勉強のしたい者、成績が著しく悪い者には、その授業時間に特別夏季講習が用意されている。しかし、一年生はまだ進学のことなど考えていない者も多く、俺のクラスは比較的真面目な奴が多いため成績が著しく悪い奴も居らず、講習に参加する者はいない。  出欠確認をして、更に全員が席に着いているのを目視で確認した神沢先生が、よし、と息を吐いた。 「そんじゃ今日から雉学祭の準備に入る。あーでもまだ何も決めてねえな、先何やるか決めるぞー。静利、やれ」 「りっちゃーん、それ先生の仕事だよー?」 「うるせえ早くやれ」 「横暴すぎるよりっちゃん……」  呆れながら戸田が席をたって教壇の方へ向かうと、入れ替わりに先生が此方へやって来て、戸田が先程まで温めていた椅子に座る。前もこうだったな、とここに来たばかりの頃を思い出した。 「大丈夫か?」  左手で頬杖をつきながら、強制されたわりには楽しそうに何やりたいー? とクラスメイトに呼び掛ける戸田を眺めていると、先生から声をかけられた。  そう言えば、学校に戻ってきてからあまり先生と会話をしていなかった。六月はAクラスやBクラスの生徒が暴れていると連絡が頻繁に入り、その度に神沢先生は鎮圧の為に駆り出されていた。梅雨の季節はじめじめした気候と低気圧のせいで、苛立つ生徒が多く、毎年恒例なのだという。七月に入れば、定期考査の問題作りがあると言って、先生は昼休みも放課後も教室に姿を表さなかった。 「退院してからどんだけ経ったと思ってんですか。もう元通りっすよ」  ひらひらと右手を軽く振れば、先生は安堵したようにそうか、と呟いた。 「ならいい。ほんと回復力化け物だな」 「だから先生にだけは言われたくないですって」  俺が言うと、先生は口角をこれでもかと吊り上げ、ニヤリと笑う。なんだか嫌な予感。 「俺は下の方が化け物だけど?」 「何が言いたいんですか」 「ヤるか?」  ほらきた。どっからそうなるんだ本当に。真剣なときとのギャップが激しすぎる。盛大に深い溜め息を落としながら、目を細めて返答する。 「何言ってんすか馬鹿ですかアンタ。俺男ですって」 「ヤるのに性別なんて関係ねえよ」 「一番関係ありますよ。保健の勉強してください」 「実践が一番だな」  もう何言っても無理だ。こういう時は花咲に任せるに限る。  後ろの席を振り返れば、私有のデジタルカメラを操作しながらにやける花咲が目に入る。そのカメラをひょい、と取り上げると、花咲の視線が俺の方へ向いた。 「ちょっとー! 返してー!」 「花咲、先生の相手してくれ」 「えー、面倒くさーい」 「何かやるから」 「やった! 萌えちょうだいね!」  こっちもこっちで嫌だな。盛られないだけまだましか。  カメラを返しつつ、目線だけで先生の相手を促すと、花咲はカメラを鞄に仕舞って約束通り先生の相手をし始めた。

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