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 結局、誰一人降ろすことも出来ずにバスの扉は閉まり、車体が動き出した。松下の作戦勝ち、ということになるだろうか。  ゆるやかに速度を上げつつ、校門を抜けて、バスは一本道になっている山道を降りていく。興奮したような騒がしい声がバスの後ろの方から聞こえてきて、顔を顰めて振り向こうとすると、視界の端に松下の姿が映る。慌てて顔を前に戻すが、松下は俺の表情をしかと見ていたらしく、ふん、と小さく鼻を鳴らしながら、それでも側に戸田がいるからなのか優しい声色で俺に声をかけた。 「久しぶりに外に出れたんだから、大目に見てやってよ。一ヶ月も外にいたあんたとは違ってさ」  声色は優しくても、言葉は刺々しい。だが、嫌味は言われ慣れている。雑音だと聞き流そうとした俺の横で、戸田がその言葉に反応した。 「ちょっと、その言い方はないでしょ」 「え?」  声を出したのは松下だったが、俺も予想外の言葉に松下と同じように戸田に視線を向けた。眉間に皺を寄せて、鋭い目で松下を睨みつけながら、戸田は言葉を続ける。 「遊びに行ってたわけじゃない。死ぬところだったんだよ」  普段からは想像できない、低く唸るような声から、怒りの感情が滲み出ている。まさか戸田から反論されるとは思っていなかったのだろう。松下は少しの間呆けたようになっていたが、やがてふと泣きそうな表情をしたかと思えば、席を立って、揺れる車内の中を伝いながら、後ろにいる集団の方へと逃げるように移動した。 「ったく……何考えてんだか」  戸田が顰めっ面のまま、怒気を含んだ息を吐く。への字に曲げられた口は、すぐには戻りそうになかった。 「いいのか、あいつ」 「いくら俺でも、友達の嫌味を言う奴なんかと仲良くする気はないからね?」  言外に、心外だと言われているような感じがして、申し訳無さに咄嗟に「すまん」と声が出た。同時に、友達と言う言葉を俺に使ってくれたことに、何とも言えぬ歓びが湧き出してくる。 「なんで聖ちゃんが謝んの」 「お前が怒ってるから」 「聖ちゃんに怒ってる訳じゃないし……」 「じゃあ笑ってくれ」  戸田は俺の言葉を受けても、すぐには表情が崩れなかった。それほどまでに、俺のために怒ってくれているのは有り難い。だが、戸田の怒っている表情を、あまり見たくないと感じている自分がいる。いつものように、飄々と笑顔を振り撒いている方が安心する。俺のせいで、他人から笑顔を奪うことは、もうしたくない。  両手の人差し指で、自分の口の両端をぐい、と上げて、ほら、と笑顔を促せば、漸く戸田は眉は寄せつつも、口元をふっと緩ませた。 「笑ったな」 「聖ちゃんに笑かされたんじゃん」 「俺は笑顔の作り方を教えてやっただけだ」 「一番笑顔作れないくせに言うねー!」  ははっ、と今度はきちんと笑顔になった。それが気の緩みを生んだのか、戸田と話しているうちに、揺りかごのようなバスの緩い揺れもあり、いつの間にか俺は夢の世界へと落ちていた。

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