83 / 282

*

「ぐっ……!」  桑山先輩の身体がくの字に曲がり、低い呻き声が頭上から聞こえた。しかし、やられっぱなしではすまないのが桑山先輩らしい。懐にいる俺の顔面めがけて、即座に膝蹴りを繰り出してくる。だがその動きは痛みのせいか鈍く、余裕をもって後ろに飛びのいて蹴りを避けることができた。そのまま桑山先輩から一旦距離を取る。  桑山先輩は息が荒いまま鳩尾を押さえながら、歪んだ顔で俺を睨んだ。その射殺すような眼力に、一瞬怯みそうになる。 「……っは……ふざけんなよテメェ……」 「……喧嘩仕掛けてきたのはそっちでしょう」 「喧嘩じゃねえ、仕返しだ……っ」 「相手の実力も分からないまま挑む程馬鹿じゃないですよね?」 「はっ、言ってろ……!」  脂汗を額に浮かべながら、桑山先輩が走って向かってくる。  血迷ったのだろうか。攻撃に備え、構える体に力が入る。桑山先輩は俺に拳が届く範囲まで近付くと、右ストレートを顔面に向かって突き出してきた。しかし、スピードは先程までと段違いに遅い。難なくそれを手で払えば、今度は体を捻って左足で俺の顔めがけて後ろ廻し蹴り。  動きを見切って足の通るぎりぎりのタイミングで頭を引っ込め、軸足を足で払おうとした。 「──え」  そこにある筈の軸足はなく、一瞬脳から筋肉、全ての動きが止まる。そしてその活動が再開される直前に、視界が激しく揺れた。 「がっ……!」  身体ごとふっ飛ばされ、衝撃に遅れて右側頭部に激しい痛みが走る。なんとか立ち上がろうとするも、頭がぐわんぐわんと揺れてまともに立つことができない。 「……避けたからって……っ気抜くんじゃねえよ馬鹿が」  桑山先輩の言葉が痛みを発する頭に大きく響く。何が起こったか分からなかった。すぐそばに桑山先輩の気配を感じて動こうともがくも、すぐに脇腹へと鋭い蹴りが入れられて息が詰まった。 「っげほ、がほっ……!」 「……っへへ、あーあー弱っちいなあ?」  口角を上げながらそう言う桑山先輩に、先ほどまでの苦し気な表情は殆ど無くなっている。桑山先輩が、咳を繰り返す俺の胸倉を掴み、乱暴に引き寄せた。 「っつ……げほっ……」 「もう終わりかよ。あんだけでけえ口叩いといて」 「……な、んで……」 「あ?」 「避けた……のに……」  蹴りを出した足はまだ地面についていなかった。なのに、軸足が消えていた。つまりは、宙に浮いていたということになる。 「見えてるものは信じない方がいい、とだけ教えといてやる」  目を細めてそう告げる桑山先輩。告げられた言葉の意味を考えようにも、脳は誤作動を起こしているらしく、この態勢から抜け出せる方法を考えることすらできない。  動きが完全に止まった俺に向かって、不敵な笑みを浮かべて右の拳を高く振り上げた桑山先輩が、ふと俺の後方に視線を移した。 「……ん? あのチビどこ行ったよ?」  多分花咲の事なんだろうが、俺の後ろにいるはずだから、俺に聞かれても困る。むしろ対面している桑山先輩の方が分かるはずだが。 「……花咲、いないん…っ……ですか…」  胸倉を掴まれながら、なんとか言葉を吐き出す。 「花咲っての? いねえけど。ビビって逃げたんじゃね? お前放ってさ」 「花咲は、そんな奴じゃない……!」  花咲を見下すように笑う桑山先輩に怒りが込み上げ、胸倉を掴む桑山先輩の腕を握って力を込めながら、精一杯の形相で睨みつけた。

ともだちにシェアしよう!