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持てる力を全てこめて指を腕に食い込ませていくと、桑山先輩は眉を顰めて、がち、と歯を噛み合わせる。それでも、口の形は笑みのままだ。
「いってえな……っ」
「……離してください」
「……」
桑山先輩は唇を一文字に引き結び、無言で俺の手を振り払うように胸倉を掴む腕を離した。俺はまだ少し揺れる頭を押さえながら、指の痕がくっきりついた腕をさする桑山先輩を睨みつつ、乱れた服を手早く整える。
「……帰ります」
「チビは」
「気分が悪くなって先に帰ったのかもしれないですし。誰かさんのせいで」
そう言って、くるり、と踵を返し、桑山先輩に背を向けた。確かに、今の俺の視界には、そこに居たはずの花咲はいない。
「……ん? 花咲……? おいちょっと待て」
「……なんですか」
後ろから声をかけられて、一歩だけ無視して踏み出したが、足を揃えて渋々顔だけを後ろへ向ける。桑山先輩はやけに真面目な顔で、言葉を続けた。
「花咲っていやあ、今年の一年で一番抱きたいって言われてる奴じゃねえの?」
「知りませんよ、そんな下馬評」
わざわざ呼び止めておいて、言いたいのはそれか。人を性的な目でランク付けして噂するなんて、下衆でしかない。
湧き上がる怒りを息を吐くことでなんとか抑えつつ、後ろに向けていた顔を前に戻そうとする。
「最近寮内で襲われる奴が増えてるし、あいつ危ねえんじゃねえの」
背後から更に続けられる言葉に、ぴた、と動きを止める。
いや。そんな、まさか。
「……」
「もしかしたら、帰ったんじゃなくて連れ去られたのかもよ?」
桑山先輩のその言葉に、最悪の状況が頭を過る。そう決まったわけではないが、可能性がないわけでもない。もし、本当に連れ去られていたとしたら。
「……その襲ったって奴はどんな奴か分かりますか」
自分自身の問いかけた声が、驚くほど低くなっているのを感じた。落ち着け。まだだ、まだ抑えろ。
「詳しくは知らねえが、確か一年でいつも三人つるんでる……っておい!」
会話の途中で勢い良く走り出した俺に、桑山先輩が大きな声で呼び掛けるが、今度は無視してどんどんスピードを上げていく。
お願いだ、部屋にいてくれ。
自分たちの部屋に着いて、荒れた息もそのままに、ドアを開けようとドアノブを掴んで回そうとする。しかし、ドアノブは鍵がかかっているようで、全く動かない。ドアはオートロックではないので、自らが鍵を閉めない限り、鍵はかからない。俺が帰ってくることを分かっていて、鍵を閉めるような奴じゃない。
慌ててポケットからカードキーを取り出して、ドアに挿そうとする。だが、焦りからカードキーはその狭い穴へと素直には入らず、周りの部分に当たってガチ、ガチ、と音を鳴らした。
「くそ、くそっ!」
やっとの思いで差し込み口にカードキーを押し込み、ドアのロックを解除する。それと同時にドアを開け放った。
「花咲!」
部屋の中に向かって叫ぶが、返事はない。玄関に靴もない。
「……っ」
もしかしたら長谷川たちのところにいるのかもしれない。ノックもせずに、隣の長谷川たちの部屋のドアを開ける。
「長谷川! 鈴木!」
「うおっ、びっくりした! どうしたんだよ?」
玄関で靴を履こうとしていた鈴木が、目を丸くしながら俺に問い掛ける。
「花咲居るか!?」
「圭佑? 来てないぜ。なあ、漣」
「ああ。どうかしたか?」
怪訝な顔で長谷川が廊下の奥から玄関へと向かってくる。
まさか本当に、そうなのか。さーっと血の気が引いて、顔が青ざめていくのが自分でも分かる。
花咲が、危ない。
「寮内で使われてない部屋はあるか!?」
「本当にどうしたんだよ藤原」
「いいから早くっ!」
鈴木は俺の剣幕に気圧されたように少し後ろに後ずさった。
「た、確か──」
鈴木が指折り数えながら使われていない部屋番号を上げていく。途中でギブアップした鈴木の代わりに長谷川がそれを引き継いで、最後に「これで全部だ」の声を聞いた直後、俺は勢い良く床を蹴って、駿馬のように駆け出した。
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