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ごり、という骨と骨が擦れ合う音が生まれた直後、相手側の骨が折れる感触が突き出した拳に伝わってきた。同時に、周りにいる奴らからの小さい悲鳴が耳に入る。
「っあ、ああっ、あああ゛ああっ!!」
立原は殴られた衝撃からか床に這いつくばり、喉が潰れそうな叫び声をあげながら、顔を押さえた左手の隙間からぼたぼたと赤黒い液体を滴らせる。その液体は俺の右手の甲にも点々と染みを作っていた。
俺の視界がそれを捉えた瞬間、昼間よりかは幾分か大人しいものの、それでも理性を蛇のように丸呑みしようとむくむくと殺人衝動が膨らんでくる。
目の前の肉を引き裂きたい。皮を切り裂く感触を、筋がぶち、と千切れる感触を、この手で感じたい。
叫びすぎて喉が壊れたのかがさがさになった声を不規則に漏らす立原の、ナイフを握り込んでいる腕を掴み、無理矢理引っ張りあげる。
「うう゛う……っ!」
赤く染められた顔を押さえたままくぐもった声を発するその顔が、震えながら正面に向けば、恐怖に支配されたその目に俺の姿を映した。立原の目に映る、さながら鬼のようなその凄まじい形相の人間は、本当に俺なのだろうか。
「……凶器を使うってことは」
そう言いながら、空いている方の手で立原の持っているナイフの刃の部分を掴む。よく研がれているらしい刃が手の肉を切り裂くが、痛みは感じない。
ああ、理性が無くなりかけている。ふわふわとした意識は、なんと心地好いのだろう。こんなにも気持ちの良いものに、今まで必死に抗ってきたのか。
立原はナイフを伝って自分の腕に流れる俺の血を見て、ぶるぶると大きく手を震わせる。ナイフを握ることすらできなくなったその手から、するり、とナイフが抜けた。
「こういうことが起こることを予想してたんだろうな?」
抜き取ったナイフの向きを変えて、立原の目の前に突き付ける。
「っうう゛!」
「文句は言えないよな」
唇で弧を描くと、立原は目から透明な液体を溢れさせ、口元の手を少し退けてしゃがれた声で「わ、悪かった、や、やめて、くれ」と許しを乞い始めた。そんな立原の姿に興が削がれ、一旦ナイフを下ろし、掴んでいた腕を離した。いくらなんでも、汚すぎる。
立原の体が崩れ落ちる直前に見えた、涙と鼻水と血でぐしゃぐしゃになりながら安堵の表情を作った顔。本能はそれを潰したくなったらしい。俺は本能の意思に抗うことなく、その頚椎目掛けてナイフを思いっきり振り下ろした。
「立原あああああああっ!!」
切っ先が柔い肉を割く直前に割り込んできた何か。それに気を止める程の理性は既に失われ、喉から手が出るほどに欲する赤が、視界に溢れ出す。ナイフが首にめり込んだまま、それは床に倒れ、苦しそうに息を漏らしていた。あれだけ深く刺さっていれば確実に死ぬだろう。予想通り、血が溢れる首を押さえることもできず、声もなくひとしきり悶えたあと、それはぴくりとも動かなくなった。
「……おい、おい……」
掠れた声を耳に入れながら、手についた血を舐めとる。
不味い。血を吐き出すようにすぐに唾を吐いた。
「おい……返事しろよ……っ!」
目の前でうるさい奴だ。こいつも同じように殺してしまおうか。
「なあ、山中ァ……!」
動きを、止めた。
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