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目を覚ますとそこは見たことのある景色だった。白い天井に、手元におかれたナースコール。今回はカーテンで仕切られているから、個室ではないようだ。そして、あの時はいつも側にいた花咲の姿もない。
寝転んだまま腹に触れると、包帯の感触が伝わってきた。慎重に少し身体を動かしてみたが、腹部に痛みはない。包帯を外して傷の様子を見たい気持ちに駆られたが、巻き直すのも面倒なので医者が来るまで我慢することにした。
ナイフで切った筈の手は、そこに傷があったかどうか自分の記憶を疑うほどに、綺麗に塞がっていた。自分がどれだけ意識を失っていたのかが分からず、その現象が普通なのかの判別がつかない。
それ以上出来ることもなく、点滴の落ちる様をぼう、と眺めながら、時が過ぎるのを待つ。そうしていると、気を失う前の出来事がゆらりと煙のように脳内に浮かんでは消えて行く。
花咲は無事だろうか。心に深い傷を負ってしまっていたら、あの無邪気な笑顔はもう見れなくなるかもしれない。俺の、せいで。
立原はあの後どうなったのだろう。あれほどの傷であれば、さすがに病院に来ている気がする。案外、この病室のどこかにいるかもしれない。探す気など、さらさらないが。
山中は──。
そう考えた瞬間、凄まじいスピードで胃液がせり上がってきた。決壊する寸前で押し止め、元ある場所へと戻ったことを確認すれば、酸で僅かに荒れた喉が軽い咳を出した。
脳裏に貼り付いて離れない、虚ろな目を明後日の方向へ向け、口からも首からも血を垂れ流し、周りを赤く染め上げていた山中。
何処から間違えた。どうしてこうなってしまった。
苦しい。今にも自分の喉を掻き切って、楽になってしまいたい。全てを投げ出して、まっさらにしてしまいたい。山中を背負って生きるには、自分は地に墜ちすぎてしまっている。
人の命を奪う行為が、これほどまでに精神を引き裂くものだと初めて知った。同時に、今まで生を潰してきたことに対して、何故平気でそれを許容してきたのか、自分自身の思考が全く分からなくなった。
それでも俺は──俺の本能は、血を。肉を。命を奪うその一瞬の快楽を求めるのだろう。もう、止められない。命の重さに、気付くのが遅すぎた。
この先は生き地獄だ。死んでしまった方が楽なほどに血に飢え、それに堪えきれずに命を奪い、絶望に苛まれる。その繰り返しだ。檻にでも閉じ込められなければ、本能がある限り俺は人を殺すことを止められない。
普通の人間になるには、どうすればよかったのだろうか。
ぽろ、と目尻から一粒。それは頬をなぞり、枕へと吸い込まれていった。
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