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 しかし、一向に痛みは襲って来なかった。代わりに辛そうに呻く声がすぐ後ろから聞こえ、何があったのかと目を開く。 「お前なにして……っ!?」  水野が俺の後ろからアイスピックを掴んでいた。先端が突き刺さった手から血を流しながら、水野は苦悶の表情を浮かべている。額には脂汗がじわりと染み出し、震える口から吐かれる息は荒い。  目の前に突如現れた赤い液体。その錆びた臭いを嗅いだ瞬間に湧き上がったどす黒い欲望が、衝動として体を蝕み始める。  駄目だ。今くらいは、どうか大人しくしておいてくれ。 「駄目、です……」  不規則に吐き出される息に声を乗せ、水野は会長へと言葉を投げ掛けた。先程と良く似た虚ろな目は、それでも訴えかける対象をきちんと定めて、会長へと視線を注いでいる。  一方、思い通りに事が進まなかった会長は、眉を潜めて自分の邪魔をした水野を視界に捉え、苛立ったように言葉を吐き捨てた。 「離せ」 「会長様、止めてください……!」 「テメェ、犯られなかったからって調子にのるんじゃねえぞ」 「会長様! お願いですから……!」  涙を流しながら会長に懇願する水野。その涙は物理的な痛みからくるものか、精神的なものなのか、端から見ただけでは判別できない。  水野は、力任せに引っ張られるアイスピックを、何とか逃がさないように自分の手を犠牲にして固定し続ける。その手から出た血がアイスピックを伝い、ぽた、ぽたと通り雨のように床を赤く染めていく。視界がどんどんと赤く塗り潰されていき、正常な判断を衝動に奪われた俺は、水野に意識が向いている会長の体を蹴り飛ばし、その拍子にアイスピックが抜けて溢れ出てくる血で濡れていく水野の手を取った。 「ぐっ……!」 「い゛っ、あ、な、に……!?」  会長の呻き声と、水野の悲鳴にも似た疑問の言葉が同時に耳に入ってくる。それに答えず、掴んだ腕から流れる液体を舐めとるように舌を這わせると、その腕の持ち主から微かに感じたような声と、息を呑んだ音が聞こえた。舌の位置を上へと上げていき、源泉の場所まで辿り着けば、聞こえてくる声は完全なる悲鳴へと変化する。 「っひ……、あ、痛い、やめっ……!」  こいつの血は、美味い。  苦くて、甘い、鉄の味。  最高に気分がいい。興奮が治まらない。もっと、もっとだ。あの快感を、この身に味わわせろと何かが脳へと語りかける。 「何してんだテメェ……」  耳に入った不快な声が、本能に食われかけていた理性をその口から引きずり出した。幾分か意識がはっきりし、咄嗟に水野を見れば、その顔が若干青ざめていることに気付く。持っていた腕を染める赤を止めるため、自身のワイシャツの裾を引き千切って水野の手のひらに強く押し付けた。 「これで押さえとけ」  今にも倒れそうな呼吸を繰り返す水野が、俺の言葉に小さく頷いたのを確認し、俺を正気に戻した相手へと視線を移す。会長は眉を寄せ、怪訝な顔で俺を見ていた。

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