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教室にはもう花咲しか残っていなかった。入ってきた俺たちにも気付かないほど、作業に没頭している花咲の横に行って、肩に手を乗せる。
「花咲、帰ろう」
びく、と身体を震わせた花咲は、俺を見て少し嬉しそうな顔をしたが、すぐに教室を出る時に見せた心配そうな表情に戻ってしまった。
「藤原君、まだ調子悪い? 顔色、昼より悪くなってる気がするし、目も赤くなってる……」
「いや……大丈夫だ」
休む前に脳内をぐちゃぐちゃにしていた感情は、先ほどの悪夢による恐怖心によって塗り潰されていた。気分が悪いことには変わりないが、悪夢のことは忘れると決めてしまえば、それ以上しんどくなることもない。
「心配かけたな」
「ううん、元気な藤原君が一番だから」
花咲は首を傾けて口角を上げた。この笑顔が、俺の精神を保たせてくれている。
「静利君、呼んで来てくれてありがとう」
「いやいや、むしろこんな時間まで作業させてほんとごめんね」
戸田が俺の後ろからひょっこり顔を出して、花咲に向かって両手を合わせる。
「ほんとだよー。今度静利君から妄想のネタ絞り取るから覚悟しててね」
小悪魔的な笑みを浮かべ、びし、と戸田に指を差す花咲に、戸田は手加減してね、と泣きべそをかく真似をした。桑山先輩とのことを言わされたときのことを思い出し、なかなか大変そうだ、とこっそり笑ってしまった。
戸田と花咲と一緒に寮までの道のりを歩く。二人が話しているのを横で聞いているだけだったが、それでも楽しいと思えるほどには、精神は回復してきていた。
途中で戸田と別れて、花咲と部屋へ戻る。花咲が夕食を作るのを手伝っている頃には、一週間ぶりに訪れた日常に安堵した頭は、朝話していたことや、昼休みに先生に告げられたことを隅に追いやってしまっていた。
夕食を食べながら、花咲が病院にいる間に見舞いに行かなかったことを謝ると、花咲は、ははっ、と笑った。
「むしろ来なくて良かったかも」
「え?」
「来てたら一君と静利君の喧嘩に巻き込まれてたよ」
「病院でも喧嘩するのか、あの二人……」
はあ、と溜め息を吐いたら、また花咲に笑われた。
普段通りに夜を過ごし、明日の作業のために早めに寝支度を調えてベッドに上がると、こんこん、と控えめなノックが俺の寝室のドアを鳴らした。
「どうした?」
呼び掛ければ、きい、とドアが開いて、枕を抱きしめた青い水玉のパジャマ姿の花咲がおずおずと入ってくる。
「なんか、寝れなくて……」
段々と小さくなる声は、不安を纏って俺へと届いた。今日の朝、教室に入る際に震えていた花咲を思い出す。昨日は俺が先に寝てしまったから遠慮したのだろうが、一人でいるのはまだ心細いのだろう。
「……一緒に寝るか?」
ダブルベッドの片側に寄り、空いたスペースをぽんぽん、と叩けば、花咲はぱあ、と顔を明るくして走り寄ってきた。枕を並べて花咲が寝転んだのを確認し、掛け布団をかけてやる。
「ごめんね、ありがとう」
「ダブルベッドで良かったな」
唇で薄く弧を描けば、花咲は頬を少し紅潮させて、「その顔とその言葉は反則……」と掛け布団に鼻から下を隠してしまった。またやらかしてしまったのだろうか。とりあえずすまん、と謝っておいた。
おやすみ、とお互いに言い合って、目を瞑る。仮眠をたっぷりとったはずなのに容赦なく襲ってくる眠気に抗うことなく、俺は安らぐための世界へ意識を落としていった。
そして、あの少年が。
血に濡れた少年が。
俺の方を向いて──────
「ああ゛あ゛あ゛ああああ゛あ゛あ゛ああ────っ!!」
「っ!? ふ、藤原君!?」
俺は再び、絶叫した。
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