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 次の授業は殴り込みもなく平和に終了した。途中、白谷が戻ってきた際のドアの音には、クラス中が同じタイミングでびくりと身体を震わせたが、自分たちのクラスメイトだと分かると、あちらこちらで詰めていた息を吐く音が聞こえた。その現象に、何も知らない数学の教師が戸惑い、それ以降生徒たちの反応を露骨に窺いながら授業を行っていたせいで、授業の進捗が随分と遅くなってはいたが、それ以外は特に問題はなかった。  黒矢は授業が終わっても姿を現さなかった。それ程体調が悪かったのだろうか。  昼休みに入って、疎らになった教室で花咲たちと弁当を食べていれば、珍しく橘が教室へと顔を出した。いつもは弁当を食べ終われば俺が屋上に向かいそのまま仮眠を取るのだが、道中で襲われるかもしれないと心配したのだろう。 「…………」  既に昼飯は済ませたという橘は、俺が食べている様子を横からじっと見つめていた。戸田はそんな橘を威嚇するように睨み、花咲は口におかずを詰め込んだまま、ふんふん、と器用に鼻を鳴らしながら俺たちを熱の籠った瞳で見る。居心地が悪すぎて美味しいはずの飯の味は(ほとん)どせず、今すぐこの場から逃げ出したいという思いだけが俺の心を占めていた。  何とか飯をかき込んで屋上へ向かおうとすると、花咲が橘を呼び止めた。 「橘君」  ちょいちょい、と手招きされ、橘が花咲の方へ近付く。すると、内緒話をするようにこそこそと花咲が橘に耳打ちし、橘はなんだか嬉しそうな顔で花咲に対して頷いた。 「分かった」 「よろしくね!」  俺たちを満面の笑みで見送る花咲に疑問を持ちつつ、しかし早くこの場から去ろうと何も言わずに教室を出て、屋上へと向かった。  橘の嬉しそうな顔の理由が分かったのは、帰りのホームルーム後だった。  午後の授業も何事もなく終了したものの、寮に帰るまでは安心できないのか、クラスメイトたちは緊張した面持ちでぞろぞろと教室から出ていく。俺もその波に乗ろうと帰りの用意をしていると、花咲がとんとん、と俺の肩を叩いた。 「ごめん、藤原君。今日からちょっと副会長さんと泊まり込みでデータ集めするから、部屋帰れないんだよね……」  そう言った花咲は、声こそ困ったような雰囲気を醸し出していたが、口元が少し笑っているように見える。  不思議に思いながら、それなら一人で帰るしかないなと鞄を手にとって、席を立った。 「そうか、分かった。なら一人で──」 「一人は危ないでしょ! 橘君に泊まらせてもらえるように頼んどいたから」 「は? 橘に?」  うん! と楽しそうに言う花咲。  兄の存在を知ったあの日から、花咲は橘に対して随分と友好的になった。何があったか知らないが、下心込みなのは丸分かりだ。  期待するような目で俺を見る花咲に、やれやれと頭を振る。 「あのな、俺は男相手にどうのこうのなるつもりはないぞ」 「分かんないじゃんそんなの!」 「いいや、絶対無い」 「友人の萌え補給を手伝ってくれないの?」 「妄想の対象が俺じゃなかったら手伝ってやる」 「やだやだ、藤原君がいい!」  むう、と頬を膨らませて駄々をこねる花咲に思わず顔が綻んでしまうが、すぐに顔を引き締めた。 「絶対俺で妄想するな。分かったな?」  花咲の鼻をつまみながら言えば、花咲はきゅ、と顔のパーツを中心に寄せる。まるで酸っぱい物を口にした時のような反応に笑ってしまいそうになり、慌てて笑いを噛み殺して平静を装った。 「ひひゃいひひゃい!」 「返事は?」 「ひゃい……」  つまんでいた鼻を離す。少し赤くなった鼻先を左手で擦りながら、花咲は恨みがましく俺を見上げた。 「藤原君ほんとに乱暴なんだから!」 「当然の報いだ」  額に向かって軽く凸ピンすると、いたっ! と大袈裟に花咲が両手で額を押さえた。行動がいちいち小動物みたいで、何だが俺が悪いことをしている気分になってくる。いや、俺は悪くないぞ。

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