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 内心でほっと息を吐いた直後、別の誰かが視界に飛び出してきた。余程慌てていたのか足がもつれそうになりながら、その生徒は司馬たちのもとへ辿り着き、肩で息をしながら大きく口を開いた。 「っ総長! 下で桑山のやつが暴れてます!」 「チッ、……厄介な野郎だな。行くぞ」  フェンスから体を離した司馬がそう低く唸ると、樋山とその生徒が先陣を切り、矢野、橋立と続いて屋上の扉の方へと消えていく。司馬は遅れて足を踏み出し、俺の視界から消える直前で立ち止まった。 「精々楽しみにしてろよ──藤原ァ」  一瞬だけ向けられた獲物を狩るための視線は、確かに俺を貫いた。今度こそ、勘違いなどではなかった。司馬は、俺の存在に気付いている。  再び動き始めた司馬の姿が消える。壁の向こうから聞こえる階段を降りていく音が徐々に小さくなり、完全に聞こえなくなって初めて、俺は肺に溜まったヘドロのような息を咳き込みながら吐き出した。 「おい、大丈夫か?」  心配する言葉をかけながら俺の背中を擦る橘に、片手で大丈夫であることを伝え、息を整える。 「……橘、何であいつらが来るって分かった?」 「今日、午前中にあいつらが一回屋上に来たんだ。その時に、昼にここで話し合いをすると言っていた」 「お前がいることはバレてなかったのか?」 「俺は授業中は基本的にこっちで寝てるからな。ここまでは来なかった」  自分が座っている地面を指差して橘が言う。しかし、先程の司馬の様子からして、橘がここにいることを知っていた可能性は低くない。もし、気付かないフリをして橘を泳がせ、先程の話をわざと俺に聞かせるように仕組んでいたとしたら──俺たちはまんまと司馬の(てのひら)の上で転がされていたということになる。  馬鹿正直に挑んできた中学時代の方が、まだやりやすかった。今の司馬は、相当厄介だ。 「……あいつは俺がここにいることに気付いてた」 「ッ!?」 「目が合ったんだ。俺がいることに別段驚いた様子もなかった。午前中にお前が此処にいたことも、恐らく気付いていたと思う」  険しい表情で橘が俺を見た。引き結ばれた唇が言わんとしていることは分かる。初めて屋上で会った際、隠していたはずの俺の殺意を敏感に感じ取ったあの橘が、司馬の敵意を全く察知出来なかったのだ。橘の中でも、予想以上に手強い敵だと位置付けられたに違いない。 「……どうするんだ、これから」  橘からの問いを受け、脳内で状況整理を始める。  心を潰す、という言葉はフェイクかもしれない。仲間に危害を加えられてしまう、と焦った俺が一人で突っ込んでくるのを待っている可能性だってある。だが、一パーセントでも俺以外の誰かに危険が及ぶ確率があるなら、早急に皆に伝えておく方がいいだろう。 「司馬が近々動き出す可能性がある。皆に、単独行動は控えて今以上に用心してもらうよう伝える必要があるな」 「そんなまどろっこしいことをしなくても、頭を殺ればいいんだろ? だったら──」 「殺しはしない。絶対に、だ」  橘の言葉を、ゆっくりと強い口調でぶった切った。真正面から橘を射抜く目に、たじろいだ姿が映る。目を逸らそうとする橘の頬を両手で挟み、顔を固定させた。鋭い視線と、揺れる視線が交錯する。 「約束しろ。俺が死んでも、誰も殺すな」  目の前の喉仏が上下するのに合わせて、ごくり、と唾を呑み込む音が聴こえてくる。十秒ほど何度も瞬きをした橘は、やがて静かに首を縦に振った。 「死なせないから、殺さない」  その言葉と共に、橘の腕が俺の背中に回って抱き寄せられる。痛い程強く俺を捕まえる橘の背中に、おずおずと手を添えれば、更に締め付ける力が加わった。  校舎内で鳴っているであろう予鈴を告げる鐘が、屋上にも小さく聞こえてくる。それでもなお、橘が俺の体を離すことはなかった。

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