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 橘が俺の体を離したのは本鈴が鳴り終わってしばらく経った頃だった。本鈴が鳴った直後は何とかして引き剥がそうとしていたが、橘は頑として俺を抱き締め続けた。チャイムの音が耳から入ってこなくなって遅刻が確定してからは、橘から逃げるのを諦めて好きにさせておいた。  絡まっていた鼓動が離れ、自分のものだけになる。それに一抹の淋しさを感じながら、俺は立ち上がって橘に一言告げた。 「遅刻だ」  橘は一瞬俺の言った意味が分からなかったらしい。三度瞬きをして、ああ、と納得したように声を出した。 「教室まで送る」  腰を上げた橘が、俺に手を差し出してくる。ここに連れてきたときと同じく手を握れと言うことなんだろうが、なんだか小っ恥ずかしく思えて、その手を無視して足を動かした。 「お前も授業受けろよ。先生たちに言われないのか?」 「テストさえ良けりゃ何も言ってこない」  階段を降りながら、当たり前のように橘はそう返した。嫌味のない言い方だったせいか、俺の頭はすんなりとその言葉を受け入れる。戸田辺りが聞いていたら、また敵意を剥き出しにしそうではあるが。  いつもより緊張感を持ちながら歩みを進める橘に合わせて、俺も周りを警戒しつつ早足で教室へと向かう。無事に到着した教室に後ろの扉からこっそりと入れば、運良く教壇にいる教師の視線は黒板に向かっていた。橘に視線でもう大丈夫だと伝え、忍び足で自分の席へと近付いた。  椅子に腰を下ろすと同時に、後ろから小声で呼び掛けられる。 「藤原君、お楽しみだった?」 「違う。……後で話がある」  少しだけ後ろを向きながら告げれば、視界に映った花咲はにやついていた顔をきゅっと引き締めた。 「……良くなさそうな話だね」 「……場合によっては最悪な話だ」  少ししてから聞こえた固い声に、司馬への腹立たしさと恐れを含んだ声色を返す。  司馬を止めるにはどうすればいいのか。その答えが一番重要な筈なのに、俺たちは解を持っていない。だからと言って、屋上で想像してしまった最低で最悪の未来を、事実にする訳にはいかない。  終わりどころか一寸先すら見えない暗闇の中で、皆で体を紐で繋ぎながら崖道を歩いているような気分だ。一歩間違えれば、みんなまとめて谷底まで真っ逆さま。  上を向いてはあ、と肺から吐き出した息は、重く自分自身にのしかかってきた。  

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