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 寮のエントランスに到着すると、橘の足が止まった。その後ろで、少し遅れて俺も足を止める。  くるりと身体を反転させて俺と向き合った橘は、ようやく真正面から俺の目を見て言葉を紡いだ。 「……どんなことがあっても、俺はお前から離れたりしないからな」  顎を掬われて軽く触れるだけのキスを落とされる。指が触れた場所にはまた痛みが走ったが、唇はその柔らかな感触だけを受け止めていた。 「その割には、あっさり手放してくれるんだな」 「今のお前はそうしたいんだろ。雁字(がんじ)(がら)めにしてお前を潰したくない」 「……そうか」  戻ることを、許してくれるのか。こんなに我儘で自分本位な俺を、それでも守ってくれるのか。  ああ、橘の存在は甘過ぎる毒だ。一歩間違えばずぶずぶと堕ちてしまうような、底無し沼。そこに沈むのは悪くないが、全てを片付けてからにしたい。   「本当に危ないときは助けに行くからな」 「なるべくそうならないように善処する」  少しばかり(ほぐ)れた心が、自然な笑みを生み出す。橘はそんな俺に安堵の表情を向けて、校舎の方へ足を踏み出した。二歩、三歩と離れていく橘に今すぐ縋りたくなるのを必死に堪えて、視界からその背中を排除した。  一人になった途端、全身に絡みつく冷たい空気をありありと感じる。少しでも早く心を落ち着かせるために、小走りで自室へと戻った。  早い時間に出たお陰か、幸い寮内や校舎で相手方の生徒を目にすることはなく、無事にEクラスの教室まで辿り着く。扉を開ければ、普段朝早く来ている生徒たちは誰も居なかった。無人の朝の教室という初めての光景は、不思議と俺の沈んだ気持ちを僅かに引っ張り上げてくれるような気がした。  自席に荷物を置いて、目を瞑って警戒から無意識に溜めていた息を吐く。そうして瞼を持ち上げたところで、ふと黒矢の机に目が行った。黒矢の机には、いつも黒矢が持ち歩いている学校用のカバンが掛けられている。一番乗り、という訳ではなかったようだ。  いい機会だ。黒矢と二人で話したいこともある。他の生徒が来る前に帰ってくるといいのだが。そう思って少し待ってみたが、黒矢が帰ってくる様子はない。こんな朝早くに登校して、一体どこにいるのか。  少しざわつき始めた廊下の音が気になり席を立った瞬間、教室の後ろ側の扉が勢い良く開かれる。はあはあ、と苦しそうな息遣いをする黒矢が、扉にしがみついて俺へと縋るような視線を向けていた。 「黒矢──」 「ふ、藤原くん……! 助けて、ください……っ!」

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