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 乱暴に俺の顔を離した司馬が、俺から離れていく。ぐたりと地にへばりついた身体を動かす体力は、もう残っていなかった。   「さーて、先にこっちのゴミを片付けるか。矢野、橋立、殺れ」  滲む視界に、司馬が水野を指差しているのが見えた。その奥で、水野の傍へ足を進める二人。恐らく矢野が頭、橋立が足の方へ立つと、司馬が懐から何かを取り出し、矢野の方へと放った。それを受け取った矢野は、放られたものを手に握って水野に向かって振りかぶる。  やめろ。もう、やめてくれ。  俺が死ねばいいのなら。それだけで皆が無事に生きられるのなら。  こんな命、いつ失くなっても良かったのに。 『お前は生きるんだよ。罪に押し潰されながらな』  脳内に響いた声は、山中のもののようで、少し違っていた。沢山の人の声が、幾重にも重なったような、そんな声だった。  振りかぶった物が水野に重なる寸前、突然矢野が動きをぴたりと止めて、素早く俺の後方の方へ視線を寄越した。橋立も、司馬も、同じように後方を見る。  その直後、身体に乗っかっていた体重が一瞬にして消えた。バタバタと床が大きく響き、微かに打撃音が聞こえてくる。  司馬が少し身構えるのが見えた。同時に、後ろから誰かに俺の身体が抱き起こされ、司馬との間に人影が割って入った。 「おい、藤原! 大丈夫か!?」 「藤原君……っ!」  口に噛まされていた布が外され、ぼやけた目が上から覗き込む金色と黒のシルエットを網膜に映し出す。ぎこちなく瞬きをして再度そのシルエットを確認すれば、切羽詰まった表情で神沢先生と花咲が覗き込んでいるのが分かった。感触からすると、神沢先生の腕の中にいるらしい。花咲の柔らかな手が、恐る恐る俺の頬へ触れた。先ほどまで感じていた床の固さと全く違う感触に、目尻から落ちた雫がその手を濡らす。  少し落ち着いたおかげか、聴力がじわじわと戻ってくる。入ってきた扉の方から、争い合う音が聞こえていた。 「チッ……気付くのが随分早いな」  司馬が苛立った様子で間に割って入った人物に言葉を吐いた。 「スパイを仕込むなら、手綱はしっかり握った方がいいぞ。人は恐怖から真っ先に逃げたくなるからな」  その背中が告げた。朝聞いたばかりの声だ。俺に振り回されて、突き放されて、それでも俺を守ろうとする愚か者の声だ。 『本当に危ないときは助けに行くからな』  朝の橘の言葉が甦る。俺はそれになんて返しただろうか。善処する、だったか。善処した結果がこれか。  もう観念するしかない。  俺は、どうしたって独りには戻れない。  独りに戻るのは、死ぬときだけだ。 「……おい、お前ら。行くぞ」  司馬は矢野と橋立に見えるように上げた指先をくい、と曲げると、橘越しに俺に憎々しげに目線を突き刺した。そして、すたすたと脇の方にある扉の方へ向かい、体育館から姿を消した。矢野と橋立も水野を置いたまま司馬の後を追いかけて、体育館を出ていった。  橘が水野を壇上から下ろして此方へ向かってくる。だらりと床へと垂れる腕の先が、ぴく、と動いたことを視認して、水野が生きていることを理解した頭は安堵からついに緊張の糸を切った。遠くなる意識。閉じていく視界の中で、水野を染めている血が、やけに瞼の裏に残り続けた。

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