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  ◆  体育館の建物の陰。自分を支配していた男が不服そうな表情を浮かべながら、身を潜めていた自分の視界からようやく消えた。無意識に止めていた息を吐き出せば、続けて何度も身体が呼吸を欲しがった。すぐ横の壁の向こうからは、未だに何人かが暴れる音が聞こえているが、先程よりも随分と小さくなっている。  小刻みに震える身体は、止まる契機を失ってしまったらしい。両手で互いの腕を掴んで縮まっても、少しも止む気配はなかった。よろめきながら壁に背中をつけて、ずるずると座り込む。  この中で何が行われていたのか、大体予想はついている。何故なら、自分こそが藤原をここに誘き寄せた張本人なのだから。  襲われた? いいや、違う。これは、自分でぐちゃぐちゃにしただけだ。こうすれば、藤原は簡単に自分を信じると告げられたから。  水野という人が助けてくれた? いいや、違う。水野の名前を出せば、必ず藤原を呼び出せると告げられたから、話をでっち上げた。水野なんて人物、存在すら知らなかった。  自分がやったことは最低だ。歩み寄ってくれた人たちを騙した。行けば傷付くと分かっていて、自分を案じてくれた人を危険な場所へ誘導した。 「……っごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」  教室でも何度も溢した言葉を吐き出す。罪悪感に押し潰される心が悲鳴をあげるように。許してもらえる訳もないのに、何度も何度も。下を向いているせいで、眼鏡が濡れて視界が滲んだ。 「……黒矢」  ざり、と砂利を踏む音がして、膝に額を乗せて俯いていた黒矢に影がかかった。自分の名前を呼ぶ声は、臓器まで揺さぶられそうな重低音を奏でている。自分のような卑怯な人間は、もう二度と顔を合わせることすら許されないと諦めていた相手。 「黒矢」  もう一度、頭の上から声が降ってくる。返事の代わりにぎゅう、と互いの腕を掴む手に力を込めると、上がった肩に柔らかな感触が降りる。  恐る恐る顔を上げると、ぼやけていても溜め息を吐きたくなるほどの中性的な、いや、どちらかというと女性的な美しさを持つ顔が黒矢を見下ろしていた。その切れ長の目から放たれる視線と自分のものがぶつかり合い、慌てて再び顔を下へ向けた。  肩に置かれていた手が、黒矢の身体の輪郭をなぞるように首の方へ移動し、逃げた頬にするりと差し込まれる。表面を撫でる他人の熱に、身体が無意識に震えた。 「……ごめん、なさい……ごめんなさい……僕のせいで、僕のせいで……っう……!」 「……まだ生きている、大丈夫だ」  耳の後ろでそう囁かれ、自分より高い体温が、嗚咽交じりの謝罪を繰り返す黒矢の身体を包んだ。丸まった背中に当てられた手が、じんわりと温かい熱をもたらし、安堵から自然と涙が溢れる。藤原が去ったあと、教室で一人放心状態のまま床にへたり込んだ自分を、優しく抱き締めてくれた温かさと同じもの。  この温かさのお陰で、黒矢は何とかどもりながらも花咲たちに事情を伝えることが出来た。これがなかったら、藤原はどうなっていたか分からない。髪を乱暴に掴んで藤原を呼び出すよう命令してきた司馬の殺意に満ちた目を思い出し、黒矢はひゅっと息を詰めた。  今すぐ、この温もりに縋りつきたい。安心を与えてほしい。しかし、この汚れた手で、美しく気高いこの人に触ってはいけない。

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