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 黒矢は何度も唾を飲み込んで、口を開いたり閉じたりを繰り返す。そして、小刻みに震える息を細く吐き出して、その息に声を乗せた。 「…………本当は、……襲われてなんか、ないんですっ……! 司馬くんから、そう言って藤原くんを呼び出せって言われて、それで……水野さんのことも、そう言えって言われて……僕、ずっと藤原くんたちを騙してたんです……! 本当に、本当にごめんなさい……っ」  隠れたままの目の辺りからぽろぽろと落ちる雫。床を濡らしていくそれを眺める俺の頭は、一瞬で真っ白に漂白された。  脳が認識できたのは、司馬の二文字。それから、今も掠れた声で繰り返されている謝罪の言葉。動くのをやめた思考を、理性がなんとか再スタートさせようと頑張っている。そうして多大な労力を要して再び動き始めた脳が、黒矢の言葉の意味をやっと理解した。  黒矢はずっと司馬に従っていて、司馬が俺を呼び出すために黒矢と水野を利用した。それが、今回の出来事のあらすじらしい。  橘が今にも怒りをぶちまけそうなほどに眉間の皺を深くした。黒矢の方へ詰めようとした橘の前に咄嗟に左手を出して、その行動を押しとどめる。  様々な感情が、一気に俺の中で渦巻いていく。吐き出したい言葉が我先にとつめかけた喉は渋滞状態だ。そこから一番初めに飛び出してきた言葉を、黒矢に向けて放った。 「──ありがとう」  俯いていた顔が、弾かれたように俺の方を向いた。前髪の隙間から見える涙に濡れた目が、俺の言葉の意味を図りかねたことを訴えている。 「俺たちを騙してたことを無条件には許せないし、お前も何のお咎めも無しに許されると余計に辛いと思う。……でも、黒矢が水野のことを伝えてくれなかったら、水野はもうこの世界にいなかったかもしれない。それに関しては、感謝しかない」 「でも……僕はなにも知らなくてっ、言えって命令されたから言っただけで……!」 「それでも、結果的にお前は水野の命を救ってる。騙したことについて悔恨の念があるなら、追々償っていけばいい」  諭すように告げれば、黒矢はまた涙を溢れさせて俯いた。 「突然こんなことに巻き込まれて、辛かったよな。ごめんな」  暴力とは無縁の暮らしを送っていたはずなのに。司馬と知り合ったばっかりに。俺と同じクラスになってしまったばっかりに。普通の学生生活から追われて、命の危機に怯える毎日を過ごさざるを得なくなった黒矢への、せめてもの情け。  一際大きくなった嗚咽とともに黒矢の膝がかくん、と折り曲がり、身体が床へと落ちていく。後ろにいた白谷が、そんな黒矢を間一髪抱き止めた。 「く、黒矢君、大丈夫!?」  慌てた様子の花咲の問いに答える余裕はないようで、黒矢は若干ひきつったような不規則な呼吸を繰り返す。恐らく力が抜けている膝は目に見えるほど震えていて、自力で立つことすら困難なようだった。  近くにあった丸椅子に黒矢を座らせて、黒矢の様子が落ち着くまで、白谷が手を握り、花咲が背中を撫でているのを、俺は橘とともに何も出来ずにただ眺めていた。  

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