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「おいお前」  勝手に動いた口から、不機嫌さを隠さない声が橘に向かって投げられる。普段の呼び掛け方と違うからか一拍置いて「なんだ?」と返した橘は、曲げている首の角度を深くした。   おい、待て。何をするつもりだ。  「ついてこい」  俺の体がベッドから抜け出して、元気な左手で橘の襟を鷲掴み、その体を引き摺るようにして扉へと向かう。戸惑う橘が「お、おい」とその腕の先から呼び掛けるが、神弥は無視して器用にドアを体で開けた。  誰かこいつを止めてくれと祈ってみるものの、意識だけの俺の思いがみんなに伝播するなんてファンタジーチックなことは起こらない。一番喚きそうな戸田からの声掛けすらないところを見ると、みんな俺の奇行に思考停止、といったところか。  結局誰からのツッコミも入らないまま、俺の身体と橘は病室を抜け出し、がらんとした廊下をずんずんと進んでいく。もちろん、橘は引き摺られているままだ。俺なんか片手で止められるだろうが、そうしない理由に薄々気付いてしまった俺は、手を頭に当てる自分を思い描きながら、わざとらしくはあ、と息の音を脳に響かせた。  身体の主導権を握っている神弥が向かった先は、男子トイレ。ここまで来るとやっぱりな、という感想しか出てこない。行動を止められる術が分からないため、出来るだけ自分の心の被害を抑えられる方法を思案する。  そうしている間に、神弥は橘を個室に押し込んで、内側から鍵をかけた。狭い空間に、育ち盛りの男子高校生が二人。まったくもって普通の光景ではない。 「藤原……? トイレにいきたかったのか?」  ようやく解放されたくしゃくしゃの襟を正しながら、橘が的外れな問いを投げ掛ける。神弥が何と答えるのか注意深く窺っていると、神弥はにたり、と俺の口を器用に片方だけ吊り上げた。 『こっからはお前の番だ』  空気を通してではなく、意識のみの俺に直接伝えられた言葉の意味が理解できず、思考が止まる。次の瞬間、意識を引きずり出されるような感覚に身体ふらついた。傾きかけた俺を支えたのは、背中に回された太い腕。紛れもない、目の前の人物のものだ。 「大丈夫か? 気分悪いのか?」 「問題ない……」  自分の聞き慣れた声が鼓膜と下顎骨を揺さぶったことを認識し、いつの間にか身体が動かせるようになっていることに気付いた。神弥のやつ、かき回すだけかき回してここで放置するのか。  眉間の皺を濃くしていく俺の顔を見て体調が悪いと判断したのか、再び心配の念を含んだ穏やかな声色が言葉を紡ぐ。 「吐きそうなら吐いていいぞ。藤原のものならゲロでも大歓迎だ」 「馬鹿か、こっちがお断りだ!」  不意に叫んだせいか、骨を伝った振動が右肘を襲った。ぐ、と咄嗟に歯を食い縛って、出そうになった声を噛み殺す。  ひひひ、と脳内に響く笑い声が心底憎い。完全に神弥に面白がられている。    

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