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     病室に戻れば、いの一番に駆け寄ってきた戸田にタックルされそうになったが、鉄壁の橘ガードで難を逃れた。戸田の前世は猪か闘牛のような気がする。  花咲からは何だか期待のこもった目で見つめられたが、気付かないふりをした。といっても、そう言ったことには敏い奴だ。恐らくどういう事をしていたかはある程度予想してるんだろう。学園に戻ったあとで橘が口を滑らさなければいいのだが。  黒矢と白谷は既に姿がなかった。戻ってきた神沢先生からそろそろ帰ると言われて、一足先に下に降りたのだと聞かされた。花咲と戸田は橘を待っていたらしい。花咲は分かるが、戸田がわざわざ橘を待っていた理由がわからず首を捻れば、「聖ちゃんに余計なことしてたらぶん殴るため!」と言われた。  一瞬の動揺を取り繕いながら、ちらっと橘の様子を窺うと、橘はぴくりとも顔を動かさず無表情のまま戸田を見ている。橘の態度では先程の行為が戸田にバレることはないと踏んで、強張った身体から力を抜いた。 「大丈夫だ。ちょっと手伝ってもらってただけだから」  ベッドに戻り、何気なく言ったつもりの言葉に、戸田は予想外の反応を示した。 「え!? ちんこ触られたの!? 処す!!」 「ちっ……、とにかく、処さなくていいから! 先生待ってるんだろ? 早く帰れ」  あまりにもド直球な言葉に息を詰めたが、今すぐにでも橘に飛び掛かりそうな戸田を声だけで何とか押し留めた。花咲と橘も、と続けると、花咲は微笑みながら頷き、橘は少し不服そうに溜息を吐いた。  まだ聖ちゃんと居るー! と喚く戸田を引き摺る橘の後ろ姿を見送り、最後に残った花咲に視線を移す。 「じゃあ、僕も帰るね」 「ああ、心配かけて悪かった。司馬たちにはくれぐれも気をつけろよ」 「うん、分かってる」  またね、と花のような優しい笑顔を置き土産に、花咲も病室を出て行った。  先程までの喧騒が嘘のように、しん、と部屋の中が静まり返る。自分がしている呼吸の音が室内にやけに大きく木霊する。  その静寂に慣れれば、ちくたくと時を刻む音がやけに耳についた。明るいせいか寝ることも出来ず、ただ無心のまま天井を見上げ続ける。 『聖、起きてるな?』  唐突に頭に響く声に、心の内で起きてる、と返した。先程の恨み節もついでに続けようかと思ったが、復讐が怖いので脳内に思い浮んだ言葉を消しておく。 『もう、あいつには関わるな』 「あいつ?」  心の中で聞き返したつもりが、口が勝手に開いていた。今は俺しかいないから、特に問題はないだろう。 『サイコ野郎だ。あいつは今のお前には危険すぎる』 「……俺が弱いことぐらい分かってる」 『いや、分かってねえな。そういうことじゃねえ。あいつは危険だって言ってんだよ』 「俺の身体にとって……? どういうことだ?」  聞き返した瞬間、コンコン、と病室の扉がノックされた。その後、すー、と扉が横にスライドし、看護師らしき人物が顔を出す。 「もう面会時間は──ってあれ、声が聞こえたと思ったんですけど……」 「……テレビをつけていたので。音漏れしてたんですね、すみません」  咄嗟についた嘘を、看護師は別段疑いもせず納得した。 「ああ、そうですか。もう消灯なので、電気消しますね」 「はい」  ぱち、と部屋の電気が消える。おやすみなさい、という言葉のあと、廊下から入ってきていた光も徐々に薄くなり、部屋は簡易的な闇に包まれた。 「おい、神弥」  看護師の足音が聞こえなくなるのを待ってから、中断された話の続きをするために、脳内の兄に向かって呼び掛ける。しかし、もう頭のなかにあの憎たらしい声は響くことはなかった。

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