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 好きな食べ物、苦手な動物、得意な科目──基本的な他愛もないことを、一つ一つ俺たちは確かめあう。橘は激辛料理が好きで店の辛さでは物足りなくなった結果自分で作るようになったとか、俺は何故かよく蚊に刺されるから苦手だとか。学園中を巻き込んだ殺し合いの最中だというのを忘れてしまうほどに、緩やかな時間が流れていた。  そんな穏やかな病室の雰囲気がぐらりと傾いたのは、橘が学園に入ることになった理由を語り出したときだった。 「俺は雉ヶ丘に入るまで、人を殺すことが悪いことだと知らなかった」  橘は至極真剣にそう言い放った。どう反応していいか分からず黙りこくった俺に、橘は少しだけ眉尻を下げて言葉を続ける。 「俺の両親は小さな店を経営していたんだが、経営難に陥って闇金に手を出したんだ。物心がついたときには既に毎日のように取り立ての奴らが家に押しかけてきていた。親は追い返す度胸も隠れてやり過ごす器用さもなかったから、痛めつけられるのを分かっていながらそいつらを家に招き入れていた。それが、俺の日常だった」 「……お前は、大丈夫だったのか」 「ああ。俺はむしろ彼らが来るのを待っていた。普段は親は金のことで喧嘩ばかりしていて俺はほったらかしだったが、その時だけは取り立てのうちの一人が遊び相手になってくれていた。小学校すら行けなかった俺に、勉強を教えてくれたのもその人だ。色んな事を知っている賢い人だった。俺の常識は、その人によって形成されたといっても過言じゃない」  橘の言わんとしていることが薄っすらと理解できた。普通は親や同年代の友達、本やテレビなどで構成されていく世の中の常識が橘には存在せず、ただ一人の常識が橘の全てになっていたということか。 「俺が十歳のときだったと思う。両親が揃って首を吊った。いや、吊らされたのかもしれない。俺がその人と外に出ている間に、両親は死んで片付けられていた」  告げた橘よりも、聞いている俺の方が動揺した。自分の両親を殺されて、橘はどう感じたのか。  それは問う必要もなかった。平然としている橘の表情からは、悲しみや怒りといった感情は全く読み取れない。特別なことでも何でもないというような、そんな顔だ。 「俺はそのままその人のいた組織で世話になることになった。その辺りから、俺は人の殺し方も教わるようになった。仕事に必要な知識だから、と。何度か見学として現場にも連れていかれたが、目の前で俺に縋ってきた人間が事切れるのを見ても何とも思わなかった。俺にはそれが普通で、日常で、生きるために必要なことだと認識してたんだ」  淡々と告げられる話は、俺の心にどろりと闇を塗りたくる。  悪いと分かっていて自分のために人を殺し続けた俺とは違う。人を殺してはいけないという幼子でも分かるような基本的な倫理観さえ、橘は持ち合わせることができなかったのだ。 「初めて人を殺したのは組織に入って一年くらい経った頃だ。人を殺すのは思っていたより呆気なかった。こんなに簡単なことなのかと思ったほどだ」 「……っ」  幼少期の橘を形作った周囲の環境の(おぞ)ましさと、殺人を快楽として消化している自分への嫌悪感が腹の中で入り混じる。膨れ上がる負の念と共に胃液が食道を上ってくるのを感じ、咄嗟に手で口を覆った。その様子に気付いたのか、橘はばつの悪そうな顔で俺の頭へと大きな手のひらを乗せる。 「……少し喋りすぎたな、悪い」  橘が悪い訳ではないと伝えたかったが、頭を振ることも声を出すこともできず、俺はただ喉を焼く酸が元の場所へ戻るのを待った。

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