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午前十時すぎ。平日の高校生なら、学校で大人しく授業を受けているはずの時間。
司馬は朝から眉間に深い皺を作りながら、背後に凸凹な二人を連れて静かな寮内の廊下を歩いていた。
藤原で遊び損ねて一週間が経った。格下の奴らに打ちのめされた司馬陣営の生徒たちのメンタルは回復してきていたが、司馬の機嫌は地をいったままだ。
「そーちょーまだ機嫌わりぃのー?」
凹の方の生徒──矢野が一歩前を歩く司馬の顔を下から覗き込む。
「うるせえ」
「そんなにあいつで遊べなかったのショックー?」
「黙れ」
眼球だけを動かして放つ鋭い眼光が、矢野に容赦なく突き刺さる。しかし、矢野は怯える様子を見せず、「わーこわーい」と楽しそうに嘯 いた。
「……おい、橋立。こいつ黙らせろ」
司馬が苛ついた様子で顎を矢野に向ければ、橋立はのそりと腕を動かして矢野の首根っこを掴んで持ち上げる。
「離せよ、このポンコツロボットが」
先程までの間延びした声色はどこへ、矢野は唸るように声を出して橋立を睨み付けた。その足元は地面から離れ、空を歩いている。人一人を片手で持ち上げているにも関わらず、橋立は無を示す表情を一ミリたりとも崩さない。
「……黙れば離す」
「アァ? テメェオレに指図すんのか?」
「……総長の命令だ」
威嚇する矢野に対して、ぼそぼそと言葉を紡ぐ橋立。一向に離されない手に痺れを切らしたのか、矢野はばたばたと手足を暴れさせた。
「はぁぁぁなぁぁぁせぇぇぇぇ!」
「…………黙れば離す」
「黙りゃ良いんだろ! 分かったから離せクソが!」
矢野の言葉の直後、橋立の手がパッと開く。急に重力に引っ張られた矢野の体が、地面に向かって傾いだ。ようやく地についた足で何歩かよろめきながら進み、矢野は体勢を持ち直して素早く橋立へ憎しみのこもった視線を投げた。
「今日帰ったら覚えてろ、ぜってー掘ってやるからな!」
「黙れ」
数分前よりも更にワントーン下がった司馬の声で、今度こそ矢野が口を噤んだ。視線は前に向いているにも関わらず、恐ろしいほどの殺気が司馬の後ろにいる矢野をその場に縫い付ける。
「そういう話を俺の前でするなっつったよな?」
「……違うって、これ勝負だからー。ほら、男と男のプライドを賭けた勝負だからさー」
「次やったら殺すぞ」
冗談の欠片もなく吐き捨てられたその一言に、ひきつった表情の矢野の喉仏が上下に動いた。
廊下に静けさが戻る。一刻前と違うのは、そこを歩く三人の周りの空気が張り詰めていることだ。話はおろか、息をするだけでも命をとられかねない緊張感。
いつもの道を黙々と進む三人は、寮を出て校舎に向かう。その道中、司馬が突然眉をぴくりと動かして校舎の上の方へ目をやった。
「──────…………」
何秒か校舎の窓を見つめる。その視界には、窓越しに見える人影一つない空っぽの廊下が映っている。
「…………やけに静かだな」
司馬はそう呟き足を止めた。後ろを歩いていた二人も司馬に倣った。
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