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  「やっとこっち見たな」 「……」  橋立に向けて放った言葉への返事はない。ただ、その無機質な瞳が長谷川を捉えたまま、僅かに細められる。  長谷川の方へ伸ばされていた腕を引き、橋立が腰を若干地面の方へ落とした。それに気付いた長谷川は、同じく重心を低くして構えの体勢を取る。 「自我はあるのか。ご主人様の命令でしか動けない、突っ立ってるだけの木偶(でく)の坊かと思ってたよ」  挑発する言葉を吐きながら、次に予定している動きを脳内で反芻(はんすう)する。花咲から聞いた情報と、僅かながら自分で事前に集めていた情報を基に、長谷川は作戦を既に組み立てていた。先程の打撃の感触を見るに、短期決戦は厳しい。かといって、長期戦に持ち込もうにも、倒れない丸太を相手にやり合って、体力が持つ自信がない。  ならば、ひたすら避けて相手の体力を削っていくしかない。怒りで力が強化されようとも、当たらなければ問題ない。思考が(にぶ)ればそれだけ隙も大きくなり、動きも単調になるだろう。 「まあ、そのご主人様も簡単に吹っ飛ばされたみたいだけどな」  ただ司馬を貶すだけでは、戯れ言だと流されるだろう。橋立の中に潜む地雷を探すため、少しずつ踏み込んでいく。 「…………」  長谷川が放った言葉に、橋立はほんの僅か目を細め、ダン! と大きく床を踏み込み長谷川のすぐ側まで一瞬で移動した。その異様な速さに脳より先に間一髪反応した長谷川の腕が、体ごと吹っ飛びかねない力に押し負けてごり、と嫌な音を鳴らす。 「ぐっ……!」  顔面に向かって放たれた拳の威力は、長谷川の想像を軽く越えていた。なんとか受け止めた腕は骨折まではいっていないだろうが、骨の悲鳴を聞くに尺骨にひびくらいは入っているだろう。少し挑発しただけで、この威力か。  拳の反動で再び橋立との距離が開く。しかし、橋立はその距離をコンマ数秒で詰めてくる。自分から攻撃する暇など与えられない。ただその暴力的なエネルギーを受けないように、脳をフル回転させて橋立の動きを予測しながら、瞬きすることを忘れた目を忙しなく動かしてひたすら避け続ける。  不意に廊下に大きな物音が響き渡った。橋立の意識がそちらにぶれたのか、攻撃の手が止まった隙をついて、蹴りを橋立の鳩尾に叩き込む。流石に少しだけ怯んだらしい橋立から一定距離を取って、長谷川は慎重に物音の出所を探った。  橋立の背後に見える橘の姿。その先に、廊下の壁から立ち上がろうとする司馬が見えた。橘が司馬を壁に叩きつけた音らしい。  いい頃合いだ。 「アンタのご主人様は負けそうだけど? というか、本当に強いのか? アイツ。何十人もけしかけといて、藤原一人も殺せねえ──」  言葉を発していた長谷川の口が動きを止めた。

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